瞼を開いた視界に広がったのは快晴の青空とやや遠い木々の並び、そしてその木々までの距離を埋めるように広がる鮮緑の草原と、そこへ焼き印でも押し付けたように刻まれた見覚えのある魔方陣だった。

 視覚を意識すれば次に足裏が地を踏んでいる事に気が付き、どっと戻った重力が膝を叩きつける。しかし予想の範疇内だ。経験則で踏ん張った如月翠は少々よろめくにとどめてピンと背筋を伸ばして佇立した。続いてぐらりと脳味噌が揺さぶられたけれど深呼吸をしてなんとかいなす。スーツの内側に着たシャツが滲んだ脂汗を吸い込んで張り付いているのがわかる。不愉快だ。眉根を顰めたところで背中へと押し付けられる質量。
 苦味のある息が背後で深く吐き出された。

「さすがに、キッツ……普通の転移とは比較にならねぇなオイ……」
「想定の範囲内だ。常日頃から鍛錬をしていないからこの程度で音を上げる事になるんだ軟弱者め」
「やぁん、翠ってば転移の後遺症よりもキッツーい」

 身を僅かにくねらせてみせる双子の弟のふざけた態度に翠は小さく鼻を鳴らした。半ば伏せられた碧眼が侮蔑の色に冷たく濡れる。指の絡まる汗ばんだ手をふりほどいて大股で歩き出せば、案の定背後でうわ、と短い悲鳴を上げて弟の倒れる音がした。

「いっ……たたた、もー優しくないなぁ翠は」
「今は任務中だ、私語を慎め愚弟」
「はいよ、オニイサマ」

 なおもふざけてみせる如月叶へ眼光鋭いひと睨み。「おお怖い怖い」などと肩を竦めるのに背中を向ける。……相手をするだけ時間の無駄だ。
 改めて周囲を見渡してみた。とはいっても、何度見たって広がっているのは何の変哲もない空と、森と、草原である。ただ、大気に溶ける魔力の質感はやはり翠達の生まれ育ったあの世界とは異なるか。酷く掴み所のない、扱い難いマナだ。翠は己の魔力を広げて溶かしてみようとしたが、二つの魔力は一向に交わる気配を見せず水と油のように反発しあうばかりだった。

「ふん……どうやらこの世界に魔法を使うという習慣は無いようだな」
「もしくは、俺達の魔力とあまりにも性質が違いすぎるだけかもねぇ。翠の考察の方が正しいことを祈るよ。この状態で魔法戦になったりしたら、勝てるかわかんないし」
「体術の訓練を怠るからそうなるんだ」
「はいはい軟弱者でごめんなさいねぇ」

 倒れたその場に座り込んだまま気のない様子で返す弟を睥睨。まったく、反省の色が無いのだから改善の余地が無い。つまりはどうしようもない愚弟だ。魔女の本分である真理の探究も、任務に必要な肉体作りもおろそかにして色事にばかりうつつをぬかして、恥ずかしくないのだろうか。
 ――不意に、自分達以外の気配を感じた。

「なんだ、これ……?」
「「!!!」」

 遠く微かに届いた声。驚き振り返った二人の視界が真っ先に認識したのは揺れるライトブラウン。それからはためく白。無意識に、翠は苦く舌を打つ。
 地面へ刻まれた魔法陣の外周をいかにもおっかなびっくり触れて観察しているのは、翠らと同年代だろう外見の、紛れもない知的生命体、つまり、人間だった。
 背後に叶が寄り添う。

「翠、早まるなよ」

 早まる?
 何を言っているのだコイツは。
 むしろ、遅すぎるぐらいだろうに。

「あんたら、こんな所で何やってるんだ?」

 立ち上がった男が此方へ顔を向け、気さくな口調で呼び掛け足を踏み出す。
 その瞳に警戒心が隠れ、右手がズボンのポケットへと入れられている事を翠は読み取った。一見無造作に歩み寄って来る様子は、しかし見るものが見れば――つまり翠達には――慎重に間合いを計っているとわかる。どうやらこの男、武芸にはそこそこ自信があるようだ。かといって警戒する様子に驕りは見えない。己の力量を弁えた上で、紅い瞳は翠らの力量や出方を探っている。
 油断ならない相手だ。そう翠は評価した。そして現在は任務の真っ最中。そこに危険分子が現れたならば選びうる行動は翠にとって唯一である。

「……迷子か? それともキングの……」
「――排除する」
「「!?」」

 前方と後方で驚愕に息呑む気配。がくりとしゃがみ込むような動作で屈伸した身体が瞬間地を蹴り弾丸の如く撃ち出され青年へと迫る。
 
「ちょ、おいッ!」

 声を捩じ伏せるように腹を狙った掌拳は、しかし咄嗟に屈まれ急所を逸れる。ガードした腕へ叩き込んだ衝撃に青年の身体が後方へ飛んだ。――否、衝撃を逃がすため此方の技に合わせて跳んだか。

「なんなんだ、あんた!?」

 誰何の叫びに、しかし息吐く隙などあたえない。再び地を蹴り間合いを詰めた翠は青年を追い越し背後に回るとその背に肘鉄を叩き込んだ。
 ――が、これも決まりきらない。前へ倒れ込むように上体を倒した青年の背を滑るようにかする。そのまま前転した青年が翠へと向き合った。
 燃えるような紅い瞳が翠を射抜く。
 アルビノとは違う。血の赤では無い。もっと、なにか、

「聞く耳も持たねーってか」

 低くこぼした声が聴こえて、はっと引き込まれていた意識を戻す。と同時に伸び上がるように靴裏が迫って来て仰け反りつつ後方へたたらを踏んだ。立ち上がった青年は勢いを殺すことなく脚を繰り出す。風を唸らせズボンの青色と靴の茶色が中空を切る。くるりくるりと踏まれる脚。踊るようだ。繰り出されるどれもを最小限の動きで避けながら翠は思う。あぁ、これは荒々しく地を踏み鳴らすアレグリアスのリズムだ。乗算的に速度が増して行く。廻しても踏みつけても蹴り上げても蹴り下ろしても、しかし翠には追い付かない。男の羽織る白の上着がまるでファルダのように翻るたびに紅い瞳は焦燥と疲労に染まっていった。
 テンポが落ちる。ステップが乱れる。大振りの一蹴りに間合いをとれば、相手もまた後方へ大きく退いた。

「やっぱ、蹴りだけじゃ間が持たねぇなー……」

 喘ぐように独り言ちるがその呼吸はほとんど乱れていない。どうやら体力には自信があるようだ。
 だとしても、此方がそれに付き合ってやる道理もない。
 くんっ、と至極軽い動作で一気に身体が跳ぶ。足底に込めた魔力を弾けさせて先ほどまでのおよそ倍の速度で間合いを詰めた翠は青年が反応するより僅か速く、その勢いのまま右手を打ち出し彼の太い首を鷲掴んだ。
 間近で赤を覗き込み、Auf Wiedersehen。唇の動きだけでそう囁いた
 刹那。

「!」

 視界がぶれる。手のひらから確かに掴んでいた獲物が消える。戸惑う間も与えられずに鼻腔を甘ったるい香りが通って肺を蹂躙し胸を焼いた。思わず腕で口元を覆う。熟れ過ぎて腐り爛れたザクロの果汁を血や腐肉と混ぜて発酵させた果実酒のような悪臭。拙い、とシグナルが瞬く頃には既に脳味噌まで香りに蹂躙されあまりの目眩に片膝をつくことを余儀なくされた。
 屈辱だ。ぎりりと歯を食いしばる。そして裏切りだ。眩む眼を必死で見開き、翠は前方をしっかと睨んだ。憎悪すら煮えるその眼差しの先で、へらりと笑う、顔。

「叶……!」

  間違いようが無い。これは双子の弟が好んで使う、幻術の道具のひとつだ。
 よくも、と眦をつり上げる。膨れ上がった殺気で弟を射抜いた。実際、手足の痺れがなければ翠は迷いも躊躇も無しに叶の首をへし折っただろう。翠は不誠に容赦をしない。それを知っているからこそ叶もまた躊躇い無く兄の自由を奪う。
 そんな愚弟が、どうしようもないなぁ、とでも言いたげに疲れた顔で溜め息を吐き出した。

「ちょっと、落ち着いてよオニーサマ」
「貴様!」

 何を悠長な事を言っている。ふざけている場合か愚か者。そう言外に鋭く怒鳴る。それに対する返答は再びため息、だった。

「あー、はいはい。そうですよ俺が悪いんですよオニーサマは正しいですよ、いっつも!」
「当たり前だ」

 侮蔑すら込めて返せば叶はなんとも嫌そうなそれでいて諦感の多分に滲む顔で空を仰いだ。翠はそんな弟をただ胡乱に睨み付ける。佇む叶の背後では青年が尻餅をついた格好でぱちくり目を瞬き双子のやり取りを見つめていた。背後から刺されたらどうする気だ、と翠は心配というよりは侮辱的に思う。むしろ刺されてしまえばいいのにとすら考えたが、青年は難しい顔で翠と叶とを見比べるばかりだ。
 その紅い、瞳。
 くるりと軽快に愚弟が青年へ身体ごと向き直った。

「悪かったね、いきなり攻撃して。見知らぬ土地でピリピリしてたんだよ、コノヒト。後でよぅっく言って聞かせておくから、勘弁して。ね?」

 この通り、ほんとごめん。両手を顔の前で合わせて拝むように謝罪する弟に翠は眉をひそめた。何をやっているんだこの愚弟は。排除せねばならない相手に対してどうして謝ったりする。それより早く始末しろ。
 そんな翠の不穏な眼差しが視界に入ったのだろう、手の中のナイフを握り直しつつ、青年は警戒心で塗られた眼で翠を、次いで柔く睨むように叶を見つめた。

「別に気にしてないけど、あんたら何者? ……キングの兵士じゃねぇだろーな」
「……王(キング)?」

 はて、叶が首をかしげる。道化染みた大袈裟な動作は知らないと言う意思表示だろう。実際この世界に来たばかりの双子には何の事やらさっぱりだ。

「……違うんならなんだって襲ってきたりしたんだよ」
「任務の障害となりうる者は排除する。それだけだ」
「……任務?」
「すーいちゃぁん……」

 ねぇなんでそう余計なことばっか言うの。そして話をややこしくするのっ! 脱力し喚く愚弟の言う理屈はいつだって翠には理解できない。ので、馬鹿の相手などしていられるかとでも言うように鼻をならした。がくりと項垂れた叶は、青年へごめんねとまた謝罪すると、ちょっと待っててね、ちょっとあの愚兄説得してくるから。あぁでも怖かったら逃げてくれてもいいよ。ごめんね、びっくりさせて。そう幼子へでもかけるようなふにゃりと優しい言葉を掛けて、くりり踵を返して彼へ背を向けるとそのままつかつか翠の方へ歩いて来た。眼前で目線を合わせるようにしゃがんだその頭をよっぽど殴ってやろうと思ったが、悔しいかな身体は未だ愚弟の技によって麻痺したままだ。中身は兎も角魔女としての腕前や資質は確かなのだ、弟は。その事自体は誇らしくすらあるというのに、どうしていつもいつも翠の意思に反した行動ばかりをとるのか。殺意混じりの視線を受けて、叶はといえば聞き分けの無い子供でも見るような困ったなぁという顔をしている。それがまた翠には不本意だ。

「何をしている、早くあの男を殺せ」
「あのねぇオニーちゃん、あーた今回のミッション内容ちゃぁんと覚えてる?」
「愚問だ」

 馬鹿にしているのかと眦を吊り上げる。異世界へ繋がる転移魔方陣の動作確認。そして転移先の世界に関する人種人工生態宗教歴史文化生活水準魔力の有無や魔術的エトセトラといった各種データの収集。それが今回の任務内容だ。
 答えに、叶はうんうんそうだねぇその通りだと頷いた。
 いちいち癇に障る動作である。

「じゃあ次ね。海の事は舟子に問え、山の事は樵夫に問え。この諺の意味は?」
「何事も専門家に聞いた方が無駄がないという意味だろう。それがどうした」

 無駄話をしたいなら後にしろ。愚弟を睨み付けて、それから青年へ視線をやった。逃げられたらどうする気だと苛ついたが、不思議なことに青年は胡座をかいて此方を見ている。魔法でも使ったのだろうか。そんな形跡は無かったが。

「その諺を踏まえた上で、次の質問」叶が口を開いたので視軸を戻した「この世界の情報を集めたいなら、さて、誰に聞くのが一番効率がいい?」
「それは……」

 黙る。愚弟の言いたいことが漸く理解できて、翠はむぅと唸った。
 この世界の事を知っているのは、この世界の住民だ。だからつまり叶は、この世界の原住民である青年を殺すのではなく協力を求めようと提案しているのだ。
 確かに、それは悪くない思い付きだ。街へ行き無作為に情報を収集してまわるよりも、指針になる一人がいた方がずっとはかどる。けれど愚弟の言うことに諾諾と従うのも腹立だしい。

「……貴様の幻術で引き出せば良いだろう」

 憮然と言えば、叶はまた困った子供を見るような眼で苦笑した。

「あのね、それは最終手段デショ。この世界の情報集めるのにいちいち片っ端からそれしてまわるの? 人間の脳味噌がどれだけ混沌としてるか知ってる? 必要なデータ選り分けんのすっごく手間なんだからね? むしろ効率悪いよ」
「むぅ……」
「そもそも俺らはイレギュラーなのよ? この世界には、極力干渉せずにお仕事しないと、うっかりこの世界の防衛本能に触れたりしたら俺達最悪死んじゃうからね? 抑止力舐めちゃダメよ?」

 抑止力。世界が存在を保つ為に脅威を排除する、力の作用。英雄であったり魔王であったり災害や人災であったり積み重ねられる不運だったりするその働きに勝てる者は存在しない。
 世界に"異世界からの侵略者"だなんて役割を振られてしまったら、成る程任務遂行は難しくなるだろう。
 むぅ、と、翠はもう一度唸った。不承不承ながらも納得の意思表示に、うんうんと愚弟が何度もうなずく。

「流石は翠。任務に私情を挟まない兵士の中の兵士! ――さて、それじゃあ任務遂行の為に、彼にちゃあんと謝れるよね?」
「ぐ……」

 言葉に詰まった翠の視界で満面の笑顔を浮かべる叶。恥辱や屈辱がふつふつと沸騰するも、結局、翠は私情よりも任務を取った。苦々しく頷けば褒めるように頬を撫でられ、その動作だけで全身を蝕んでいた匂いも痺れも嘘のように消え失せる。
 指先に僅かに残る余韻を払うように立ち上がれば、同じように立ち上がった叶が後方に向かって大きく手を振った。

「ごめんねぇお待たせして、もうだいじょーぶだからー」

 阿呆の代名詞みたいな弛い口調で言って青年の方へ歩き出す。彼方も立ち上がった青年は、戸惑いつつもまだ警戒心の滲む眼差しを叶へ、次いで翠へ注いだ。小声での会話だったから、内容は聴かれていないだろう。聞こえていたところで理解など出来やしないだろうが。
 ふぅ、と翠は気だるく溜め息を吐き出した。そしてむすっとした顔で両手のひらを相手に見せるようにホールドアップする。

「……突然の非礼を詫びる。既に戦う意思は無い。重ねて、此方からは決して危害を加えないことを誓おう」

 慇懃無礼な謝罪の言葉に、青年はきょとんと一度、眼を瞬いた。
 その紅い瞳を見て、翠はあぁと吐息だけで呟く。
 あぁ、そうだ、あの瞳はまるで、
 闘牛と踊る、マタドールが振るう真っ赤なムレータ。











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「アレグリアス」=フラメンコの一種。alegre(喜び)という語源通りの明るく陽気な曲種。ダイナミックで爽快なバイレが特徴。※Wikipediaより
「ファルダ」=フラメンコの衣装のうち、女性が着るスカートのこと。
「Auf Wiedersehen」=ドイツ語で、さようなら。
「マタドール」=闘牛士
「ムレータ」=闘牛士が最後の場面で使う赤いフランネル製の布とそれを支える棒。※Wikipediaより