視界が封じられ一切が闇に沈む世界。
 迷い無く駆けながら、夜彦は薄く口を開いていた。
 背を見送るロキ達には見えない。その唇から覗く舌が細く赤く先が二つに割れているのが。
 一度立ち止まり、シャァァ…と、威嚇音に似た音をその舌で奏でる。

 感じるのは味ではなく……匂い。

 蛇は舌で匂いを感じ立体的に世界を認識するというが、今の夜彦はまさにそれであった。
 誰も、夜彦自身でさえ気づかない。その服の下、或いは掌、手の甲に、薄く土色の鱗が浮かび上がっている事に。
 人と蛇、その中間の異形の姿と化している彼の姿を見て、何者なのかと問う者は今は居ない。
 それを問うだろう二人の神は今、彼の20mほど後ろで彼の様子を見守っている。


 ―――…父上………―――


 囁き、拳を握る。それは果たして誰に対する呼びかけか。
 

 ―――私、は…―――


 駆ける。盾を持つ男が振り向く。詰め寄る。後1mの距離で、盾から伸びた幾重もの触手が夜彦へ迫る。
 否、違う。それは触手などではない。
 鱗が覆う体。双眸。口。牙。舌。
 それは、盾に飾られたメドゥーサの頭皮から生える何百何千匹という、蛇。
 迫るその牙が皮膚へ突き刺さるその刹那、


『退け!!!』


 人ならざる種族の吐息と奇妙な舌の動きで紡がれた一喝にピタリと蛇達の動きが制止する。 
 その異変を当然のことの如く受け流し、夜彦の両手が男を戒め絡みついている蛇達を掴む。


『退きなさい我が眷属(・・・・)、この者を開放せよ!!』


 それは絶対無比なる王者の命令。身が震え上がり、本能がその命令に従う。
 うぞぞぞぞぞぞっと、一斉に蛇達が宿主であるメドゥーサの元へ戻り伸び絡めていたその身体を男から離し畏敬と畏怖に身を縮こまらせる。

 神具から開放され意識を失い倒れた男を支えた夜彦は男が生きている事に安堵の息を吐き出して膝を付き、反対の腕で支えたアイギスの盾に―――メドゥーサに向かって、「目を瞑ってください」と囁きかけた。
 彼女もまた彼の支配下にあるのか、それともその囁きの優しさ故か、見開かれていた瞼が下りる。
 それでも一応と盾に自らの上着をかけてその顔を隠してから、夜彦は男を地面に横たえ、此方の様子を見ているロキ達へ呼びかけた。


「あの、終わりました!!」


 叫ぶその口元、舌は人間のそれに戻り、浮かび上がっていた鱗もまた消えている。
 歩み出てきた二人の神は、だから彼に起こった異変には気づかなかったのだけれど、
 驚愕と関心と呆れに、呆然と夜彦を見た。


「ほん…まに、どないかしてもーたな。我ら出番無いやん。」
「そんな、運が良かっただけです。それよりも早く消火活動と人命救助を」


 夜彦の訴えに「任しとき」とヘルメスが杖で肩を叩き、それからその杖を強く左へ凪ぐ。
 更にソレを右へ薙いで、手首でスナップを聞かせて真上へ振り上げた。

 ごう、と、風が吹いたのは二方から。
 左右から挟みこむように吹いた突風に、その衝突点にあったガソリンスタンドの炎が叩き消され余った力は上へと流れる。
 今だ両目をネクタイで覆っているため見ることは叶わなかったが、それ故にいっそうはっきりと強大な力が操られぶつかるのを感じ取った夜彦は、「まぁ、こんなもんやね」という何でも無さそうなヘルメスの声を聞きながら唖然とした。
 この炎を消すのに、夜彦であれば、人であれば、どれほどの労力と時間を必要としただろう。それを、ヘルメスはこうも容易く消してしまった。
 本当に些細な事なのだ。彼ら神にとって、この程度の事故や災害は。
 

「凄い…ですね。」
「褒めても何も出ぇヘンでー」


 かっかっかーと楽しげに笑うヘルメスに、曖昧な笑みを返した夜彦はふと気づく。
 ロキが、先ほどから一言も話していない事に。


「あ、の、ロキ様?」


 傍にいることはわかっている。ロキの立っている方を向き首をかしげた夜彦に、それまで黙って夜彦を凝視し佇んでいたロキが歩み寄ってその目を覆う布を外す。
 圧迫感から開放された夜彦は数度瞬きをして、目が光になれてから顔を上げ―――固まった。

 そこにあったのは冷ややかな蒼い双眸。眇められたそこには、疑心が強く氷の壁を築いている。
 この二ヶ月の間ほとんど見なくなっていたその眼差しに、息を呑む。
 そんな夜彦を見下ろして、幼い少年の姿をした神であった者は硬い声音を音にする。




「君は、何者なのだい。夜彦君。」




 それは二ヶ月前にも口にされた問いかけ。
 けれどあの時以上に強く静かに、詰問する口調は責めるようで、傍でそれを聞いたヘルメスは「ロキ」と短く名を呼び諌めるがそれは届かない。
 瞳孔を揺らす夜彦を真っ直ぐ見据えて、焦れるように強く両肩を掴み、繰り返す。


「君は、何者なのだい、夜彦君。質問に答えたまえ」
「そ…れは…」


 呻いた夜彦の喉がこくりと上下する。その瞳が何かを強く渇望する者の色へと変わったのを、ロキは確かに見た。
 けれど、
 くしゃりと、次の瞬間夜彦の顔が泣きそうに歪んだ。
 



「言え……ません…っ」




 搾り出すように擦れた声で吐き出して、その顔が俯かれる。
 湧き上がる焦燥感を持て余すように、ロキは強く夜彦の肩を揺さぶった。


「何故答えられないのだい夜彦君。どうせこの名前も偽名なのだろう! 君が何者であっても構わないから答えたまえ!! 蛇を従えたあの力…君は…!」
「ごめんなさい…!!」


 引き絞るような甲高い裏返った声に遮られ、ロキはいつの間にか黄色に染まっていた双眸をはっと瞠る。
 ポタタ…ッ と、コンクリートの地面に二つ黒い染みが落ちた。


「ごめ…、なさ…っ、すみませ…っ い、言えないんです。どうしても、どう、しても…っ ごめん、なさ…っ」
「なっ、……何故、だい。何故そんなにも頑なに正体を隠すのだい…!? 君は、だって、どうして…」
「ロキこら。」


 今度は諌める声と共にガツンと頭を杖で殴られて、衝撃で夜彦の頭を抱きしめるように傾いだロキは数秒痛みに声も無く呻く。
 結構痛かったらしい。その痛みをやり過ごしてから、ギッとロキはいつの間にか背後に回りこんでいたヘルメスを睨みつけた。


「何をするのだい知略の神!!」
「ほんなら聞くがな狡知の神、あんさんは何しとんのや。」
「愚問だね見て解らないのならばヘパイストスにでも頼んで良く見える義眼でも作ってもらったらどうだい。」
「ほんならあんさんは鎮静剤でも飲みぃ我が調合したるから。」


 必要ないよと怒鳴り返しかけて、怒鳴り返せばヘルメスの鎮静剤が必要だという判断が正しい事を証明してしまう事に気づき寸前で飲み込む。 そんなロキを、そして嗚咽を堪える夜彦を見て、ヘルメスは溜息を吐き出した。


「ほんまに、どないしたんよロキ。」
「…どうもしないさ。」
「してるから聞いてんねんやろ? 何子供泣かせてんのキミ。アホちゃうん」
「ああまったくその通りだよヘルメス自分でも驚いているさ。久しく忘れていたよこんな…」


 焦燥、渇望、ジレンマ。
 頭に血が上り、考えるよりも先に飛び出す言葉。
 

「…まるで、あの頃(・・・)に引き戻されたかのようだよ。」
「どうでもええわそんなん。」


 本心からそう思っているのだろう突き放す物言いに、ロキは薄く微笑を浮かべる。 
 立ち上がって、背後に立つヘルメスは見ず、正面を向いて背筋を伸ばし小さく笑った。


「どうでもいいかい?」
「どーでもええなぁ」
「君はいつだってそうだね。決して踏み込まない。」
「めんどいやんそんなん。君かてそやろ?」
「ふふふ、ああ、まったくその通りだ。僕としたことが忘れていたよ。」


 ―――踏み込んだって、良い事なんて一つもないのにさ。
 吐息だけで囁かれた言葉には痛いほどの諦観が滲んでいて、
 思わず顔を上げた夜彦は眼を瞠った。

 そこに立っていたのはロキではなかった。否、紛れもなくロキだったというべきか。
 それは神話の時代、かつて彼を知る者達全てが真っ先に思い浮かべる姿。
 すらりと伸びた足、細身の、けれど貧弱とは思わせないしっかりした体躯の身体。それらをきちっとしたスーツに包んで、首にかかる頭髪は濡れ羽色の黒。 優しい碧眼で夜彦を映して、その男性は微笑み手を差し伸べた。


「立ちたまえ、夜彦君。帰るよ。」
「え、あの、え?」
「君が自分が何者であるのか、話せないというならば構わない。君は海夜彦。僕の有能な秘書であり家事全般が上手く人間の一人も見捨てられないような優しい心根の青年だという、それだけの事実で十分だ。だから、」


 一度言葉を区切り、
 優しく、言った。


「帰るよ、ヨル君(・・・)。」
「…!」


 言葉すら忘れるほどに、驚いて夜彦はロキを見つめる。
 その微笑からは何も読み取れなかったけれど、
 くしゃりとまた泣きそうになって、
 それを飲み込むように鼻を啜って、夜彦は右手をシャツで拭いて多少でも汚れを落としてからその手をロキの差し出されていた右手に重ねた。





「…はい。―――」





 続けた呼称は音にならず空気に溶けて消えたけれど、
 まるでそれが聞こえたかのように、ロキは微笑み何も言わず夜彦の頭を二度撫でたのだった。
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