「君は気づいたのだろう?」
― 綻びの代償 ―
唐突とも言えるタイミングで、その神、バルドルは彼の庭を堪能しているロキへと語りかけた。
ロキは振り向かない。
「イドゥンと林檎が巨人族の手に堕ちた時の神々の焦燥から、這い上がってくる老いへの恐怖から、神々がいかに弱いかという事に。」
その口調は恬淡で、信託を告げる巫女のようであるとロキは思った。 思ってから、自分の考えに濁った微笑を浮かべる。 神の語りが神に仕える巫女のようだなんて、まるで神よりも巫女の方が神聖であるかのようではないか。
けれどロキはその思いつきを気に入った。
そう、神は神聖なモノなどでは無い。どこまでも俗物で、汚らわしい。
ロキは知っていた。常若の林檎を奪われ焦り這いずり回る神々を見るまでも無く、気づくなどという曖昧なものではなく識っていたのだ。
神々の弱さを、その脆い虚栄心を。
背後で一歩、ロキに歩み寄り光の神はほんの微かに焦りの滲む声で告げた。
「神々が恐れているのは変化だよ、ロキ。神々は変動こそを恐れている。」
哂う。はっ、と、短く空気を吐いて。
笑いたくなるほど、それは今更な事実。
漸くロキはバルドルの方を半歩ほど振り向き、その端正な顔でにっこりと微笑んだ。
微笑んで、一見友好的な、初対面の相手に対して使う声音で、「成る程」と言葉を紡ぐ。
「つまり君は僕に何もするなと言いたいのかい。この固定された世界に変化を持ち込む穢れた巨人族の血が疎ましいと?」
「違う!! …ロキ、ロキ、違う、そうじゃない」
「そうじゃない?」
即座に否定の言葉を叫び悲しげに眉間に皺を寄せるバルドルに、ロキは変わらぬ穏やかな人好きのする微笑を貼り付け変わらぬ声音で言葉を続けた。
「さすがは光明神バルドル様はお優しいね、君の紡ぐ言の葉はなんて美しいものばかりなのだろう。―――ねぇ、君は知らないのかい?」
その双眸が唐突に眇められ瞳の色が引きずり込むような緑褐色に変わる。
思わず息を呑んだバルドルは、それでも「何、を、」と問い返した。
その問いに、ロキは笑う。
「何をだって? 勿論、この神界がいかに穢れているのかをさ!! 神々の欺瞞と愚行と業による罪の全てを、君は知らないと言うのかい?
―――ハッ、流石は神々の中で最もお優しく慈悲深い神バルドル様だ。君は神々の栄華の皺寄せが人間達に回っている事を知る必要も無いのだろうね。そこに起こる不幸も、嘆きも、何もかも、君には関係の無い事なんだろう。」
絶句する。それは決してその言葉が正しいからではなく、その言葉が、声が、視線が、あまりにも邪悪であったから。
体中を蛇が這いずり回るような、寒々しく憎怖に染まった声を、本能が、存在が拒絶する。
その声は、まるで世界の負を全て湛えたようで。
その眼差しは、あらゆる悪意のみで煌いていて、
「僕は止めないよ。神々の回し者バルドル。君が何と言おうとね。
大方君の言う事ならばさしもの僕でも従うだろうという目論見だったのだろうが、とんだ期待外れだったようだね? ふふふ、ねぇバルドル、光の神。いったい誰なんだい?君に穢れた巨人族との接触を望んだのは。」
「ち…がう、違う! 誰に言われたわけでも無い。私が、君と話したかったんだ!」
その悲痛にも聞こえる切実な声に、
ロキは失望にその表情を消し、次には艶やかに微笑んだ。
「――そう、そうかい。じゃあ君もまた僕を嫌う者の一人だったわけだね。」
「な…、に?」
「僕とした事が不覚にもたった今まで気づかなかったよ。ふふふ、馬鹿だねぇ、僕を嫌っていない者が神々の中にいるはずも無かったのに。」
「違、何を言っているんだロキ!! 私が、君を」
「もういいよバルドル。もう沢山だ。君はよく演じていたよ?この奸神ロキの良き友人の役をね。」
「違うんだ、ロキ、頼む、私の話を聞いてくれ!!」
「必要無いよ。もう僕は君の言葉の何一つ信じたりはしないもの。―――ねぇ、君も僕が知らないと思っていたのかい? 君達神々がどれほど僕を疎ましく思っているか、彼の主神が僕をこの聖域、神々の国アースガルドへ迎え入れた事に対して、いかに不平不満を抱いていたのかという事を。僕が知らないと本気で思っていたのかい?
知っていたさ!憎悪嫌悪侮蔑、気づかないと本気で思っていたのならとんだお笑い種だよ。それらの囁きが、眼差しが、刃となり斬り付ける事を穢れなき君達は知らないのだろうね!! どれほど、僕が…っ」
演説者のように軽く腕を広げ、嘲弄に笑んだその顔が一瞬泣きそうに歪んだ。
けれどそれは一瞬で、次には笑みがその顔を彩る。
「邪悪なるトリックスター。嫌われ者の変身者。穢れた巨人族の血。いっそ娘の待つニヴルヘイムの霧の中に消えてしまえばいいものを。」
語りながら一歩二歩と距離を詰め、固まるバルドルの耳元に唇を寄せて、
ロキは楽しげに陰鬱に艶やかに、囁いた。
「君もそう思っているのだろう?」
「違うッ!!!」
悲痛に叫び、バルドルは汚いものでも跳ね除けるようにロキを突き飛ばした。
その衝撃に合わせて揺らめくように自分からバルドルの傍を数歩離れて、ロキは優しく微笑む。
「ほら、ね?違わないだろう? 君は僕が汚らわしく疎ましい。穢れ無き光の神バルドルは、穢れに満ちた邪心を寄せ付けない。いくら君が僕に慰めを言ったって、君自身が僕を拒絶するんだ。
――――満足かい? 楽しかったかい? 友人の顔をして、僕を慰め慰めるのは。」
「ロキッ!!!」
「大嫌いだ君なんか。世界中のモノに愛されし者バルドル。世界中のものに疎まれし者の言葉を聴きたまえ。
大嫌いだよ、君なんか。」
「いやだっ!!!」
「止めろ、ロキッ!!!」
昏い囁きに苦しみ呻き、その陶磁器のような美しい両手で耳を塞いで叫んだバルドルを庇うように、柱の影から男が飛び出し、二人の間に立ちはだかった。
それはロキのよく知る者。その人物を瞳に写し、一瞬目を見張ったロキは次には花の綻ぶような笑みを浮かべ、恋人に囁きかける乙女のような甘く優しい声で語りかけた。
「あぁ、君だったのかトール。バルドルに僕を諌めさせたのは。」
硬い光を宿す石炭を割ったような双眸の中に映る自分を見つめ、ぎゅっと唇を引き結ぶ親友へ―――…否、親友であった者へ、ロキは微笑をそのままに続けた。
「あの館での仕返しかい? 君は僕を危険視してバルドルに諌めさせ、僕が何の騒動も起こさないようにしたかった訳だ。」
「―――……あぁ、そうだ。」
「ふふ、そう、ならこんな回りくどい事をしていないで、僕の息子にしたように縄を番えて地底深くにでも縛り付けてしまえば良いじゃないか。得意だろう? そっちの方が。」
優しい声音で穏やかに紡がれる残酷な提案に、トールはその身に刃を受けた時のように顔を歪ませる。
「ロキ、俺は」
「聞きたくないよ、トール。」
鋭く、表情を消し、一転温度の低い硬い声音で。弁解の言葉を遮りロキは続ける。
「君の口から偽りばかりが零れ落ちるのを、これ以上聞くつもりは無い。――愉しかったかい? 親友ゴッコは。僕が君を信じる様は、さぞかし滑稽だっただろうね。」
「俺はっ」
「僕は呪うよ君達を。そう仕向けたのは君達なのだから。」
どこか気だるげに、紡がれたのは明らかな反逆の言葉。
神々を呪う詩に、光の神達は青ざめ総毛立った。
それを気にかける様子も無く、瞳に映しもせず、奸神ロキは歌うように言葉を紡ぐ。
「僕は呪うよ君達を。僕の居場所を奪ったのは君達なのだから。
僕は解っていたんだよ? 初めから君達がいずれは僕を棄てるだろう事は。だから僕は自分でここ以外に居場所を作ったのに、それを壊したのは君達だ。破壊により生じた歪みを、君達は受けるべきなのだよ。」
信託者のように預言者のように、必定の音色を紡ぐ邪神の姿に、トールは魅入った。
昔からそうだった。一目見たあの瞬間から、全ての者は彼に魅入られた。固定された世界でさえ自我を貫き変化を恐れない彼は輝かしく妬ましかった。
誰もが羨望し、誰もが嫉妬した。
彼、奸神ロキに。
だから誇らしかった。彼の一番傍にいるのが自分である事が。
だから妬ましかった。その感情は否定できない。誰にも自分にさえも心を許さなかったロキの心を奪った、女巨人アングルボダが。
ロキの言葉にトールは気づく。
アングルボダ。苦難の運び手、嘆きの乙女。彼女の死が、彼女とロキの間に生まれた異形の子供達への仕打ちが、ロキを邪悪へ走らせたのか。
神々は間違えたのだ。その愚行によって自ら予言を成就させようとしているのだ。
それだけは止めなければならないと、何があっても阻止せねばならないと、そう思ってロキが友であると認めているもう一人の神―――バルドルに頼んだのに、それさえ最悪の予言を成就させる歯車のひとつに過ぎなかったのか。
その考えを肯定するように、一歩二歩と後ろに下がり二人との間を別つ崖の対岸に立つように、ロキは声量を上げ語りかける。
「トール、バルドル。勇ましく戦車を駆る者よ、輝かしき善の神よ。次に会う時僕らは決して今までのように酒を酌み交わす事は無いだろう。破滅の翼はもう直ぐそこにまで迫っているのだから。」
刹那、ロキの双眸が真紅に燃えた。唇を弧の形に歪め、地獄の業火を思わせるその瞳で親友であった二人を射抜き、宣言する。
「世界の滅びラグナロク。それほどまでに望むのなら、僕が引き起こしてやろうじゃないか。」
その背中に突如四対の翼が生まれる。ドス黒い心の闇で染めたような、漆黒の翼。
破滅の宣言に絶句した二人に、翼をはためかせロキは微笑んだ。
拒絶と嘲弄の笑みではなく、
それは、泣きそうに歪んだ…
「さようならトール。さようならバルドル。そしてありがとう。君達と過ごした時間は僕に安らぎと平穏と幸福を与えてくれた。ありがとう。その全てが偽りであろうとも、悪夢の前兆でしかなかったとしても――」
足が石畳から離れ、一気に数mを舞い上る。
微かに震える声で、擦れた小さな声で、
それでもはっきりと、
邪神は最後の一瞬、平和であった在りし日のように笑った。
「――…僕は、確かに幸せだった。」
舞い上がる。蒼穹の空へ。
舞い落ちた羽根が石畳の上に降るより速く、
彼らの前から、その姿を消した。
残された二人の神は放心し、やがて己の無力に拳を握る。
すれ違い、過ち、その果ての裏切り。
大罪を犯す事を宣言した、朋の声。
他に道は無いのかと、叫んでももう届かない。
世界の滅びラグナロク。破滅へと至るその道を、
彼らは一歩、踏み出した。
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