「ねぇジィさん、起きてよ、あのね、ニンゲンがこの街に来てるんだって!!」

 弾む声に叩き起こされて老爺はぱちりと目蓋を上げた。途端に光が両目に染み込む。睫毛の一本も無い瞼を擦って呻いた彼は包帯に覆われた顔を手のひらで覆うようにしてひとつ大きなあくびをした。
 場所は街中にある小さな山の頂。吹きっさらしの風が顎を撫ぜて彼方へ消える。
 老爺の数歩前に少女がふたり立っていた。

「あぁ……人間が何だって?」
「来てるの! この街にニンゲンが!!」

 起こしたのと同じ声で焦れったそうに答えたのは玉緒だった。彼女の事は赤子の頃からよく知っている。例えば学校帰りに直行してきたのだろうセーラー服姿の、上に羽織っている白いカーディガンは彼女の母親が編んだものだ。毎年飽きもせず自慢しに来るので間違いない。ちなみに彼女の母親も赤子の頃から馴染みの仲だ。そしてそのまた母親も、その前もである。玉緒の家はこの街ではかなり旧い部類で、だから老爺との付き合いも永い。

 老爺はこの街の主なのである。
 もうずっとこの街を見て生きている。

 きらきらと輝く赤金色の狐目に見つめられながら、ジィさんと呼ばれたその老爺は上体を起こして胡座をかきつつ、ほうと驚いて見せた。

「お前さんが人間なんぞを知っている事こそに驚れェたぜ。そのおつむに詰まっているのはてっきり筋肉の塊ばかりかと思っていたのだがなァ」
「ええ、ジィさんひどーい!!」

 風船のように頬を膨らませてむくれるのに呵呵と笑う。笑いながら着物の袖から煙管を取り出した。木製の品で見るからに古い。古いがよく手入れはされている。

「事実だろうがよ。そンで、人間が街に来てやがるって? 初耳だなそりゃあ、誰に聞いた?」

 訊ねつつ同じように袖から小箱を取り出して丸められた煙草種を掴むと煙管の先の火皿へ詰め込んだ。同じ箱に入ったマッチを擦って火皿へ近付け火をまわす。

「十六夜君だよ。学校で言ってたんだ、ニンゲンが街にいるって。ねー」
「うん、あれはこのあいだ解体した純血主義国家の残党だーって、騒いでたの。ソニア共和国だよ。覚えてる?」

 応じて続けた少女も馴染みの顔である。ぬいという名前のその少女は玉緒とつるんでいる龍族の才女で、これも玉緒と揃いの制服姿だ。違いは上に羽織っている緑色のパーカーか。珊瑚のような2本の太い角がフードと長い前髪を押し退けて日差しに蒼く光沢を放っている様子は何とも幻想的なような、ミスマッチなような。
 ふん、と頷くように鼻をならして老爺は痩けた顎をなぞった。

「鴉天狗ンとこのお喋り坊主か。しっかし純血主義国家ねェ。ンな国があったかい」
「あったよ。私、前に話したよ。人間ばかりの国があるって」
「人間ねェ……」

 人間なんぞとうに滅んじまったかと思っていたがなァ。
 独白めいてぼやいた老爺は指先で玩んでた煙管をゆるり唇へやった。丸い禿頭を風が撫でて過ぎて行く。土肌が剥き出しになったこの山頂で風を遮るものはほとんどない。点々と転がっている大きな岩か、老爺の背後に聳える枯れ木ぐらいのものだ。

 それは枯れているのに貧相さを感じさせない、巨大な老樹であった。円い幹は莫迦みたいに太く成人男性4人が輪になって漸く一周できるかどうかというほどで、樹皮は岩板のように硬く、大きな無数の縦線と、亀裂に似た網目状の非常に微細な筋が幾万幾億数える気も起きないほどに刻まれている。かつては新緑をたっぷりと飾っていたのだろう枝は、細いものはすべて落ちてしまっているらしく太く頑丈な部位ばかりが残っていてなんとも不気味に不格好極まりない有り様ではあるが、それでも広く天へ指枝を伸ばしている。
 幹が太くて背が高いばかりの灰色をしたそれは、樹というよりも有翼種の化石か、何か宗教的な彫像のようだった。

 とにかく、古い樹だ。

 気の遠くなるような永い時間、辺りの栄養を殆ど独り占めしてきたのだろう、周囲数十メートルには剥き出しの土と岩と疎らな雑草くらいしか無い。
 それより先に視軸をやれば噎せる程の緑で埋め尽くされているというのに。
 お椀を伏せたような形状の豊かな山の山頂は、だからここだけがどうにも侘しい。遠くから見れば禿げた頭頂に棒を立てているような何とも可笑しな案配で、だからこの山は地元では肥えた土と豊かな緑とは裏腹に”禿げ山”などと不名誉な名で呼ばれている。

 この巨大な枯れ木こそが老爺の本体である。

 老爺に名は無い。外見をいえば真っ白い包帯で両目と口許以外全身を覆った上に黒い法衣のみを着流しのように着付けた八十路過ぎばかりの男で、殊更眼を引くのは白い布の間から覗く双眸か。老爺の両目は瞳孔の色こそ黒だが虹彩は白色で、逆に白眼にあたる部分は濃い緑色をしていた。
 経歴をいうならば樹木である。ただの一本の木としてこの山頂に芽吹き、成長し、たたずみ続け、今はもう枯れてゆくばかりの身の上だ。主という肩書きはあるけれど、玉緒が妖狐で、ぬいが水龍で、十六夜が鴉天狗であるように、この老爺は妖樹なのである。

 この場にいるのは三人だけで、三人ともが人間では無く、この街の誰もが生粋の人間では無い。この街だけではなく国全体がそうであり、世界もだいたいがこうであるので、人間だけの国、なんて、想像してみるものの違和感が付きまとった。
 それでもうんと昔は珍しくもなかったか。
 玉緒が狐目を輝かせる。

「私、ニンゲンって見たことが無いの。ニンゲンってヒトガタみたいなんだよね、角とか尻尾はあるのかな」
「違うよ玉緒ちゃん、説明したでしょ。ヒトガタが人間みたいなんだよ。それに角も尻尾も無いよ、教科書に載っていたじゃない、前に生物学の授業でやったよたしか」
「そうだっけ」
「そうだよ、ヒトガタのヒトは人間っていう意味だって言ってたじゃない」
「あー……、聞いたような、聞いてないような……」
「次のテストで出るらしいよ」
「嘘!?」
「ほんと」

 ……相変わらずよく喋る童どもだ。老爺が眺めていればそのままふたりの会話は授業や教師のことへ移っていって、ひとり蚊帳の外へと閉め出された彼はしかし気にした様子もなく煙管をふかしつつ白と濃緑の眼差しを宙天へとやった。西へ少し傾いた陽射しは目に染みる眩しさでじきに来る夏を想わせるがそれでも山頂の空気はまだまだ暖かいとは言い難い。昼過ぎの今はそれでも随分マシな方で、夕刻を過ぎ陽が落ちきればまたぐっと冷え込むだろう。薄く伸ばしたような青を眺めながらまだ遠い群青の空へと想いを馳せていれば途切れ途切れな雲を背景に鴉が一羽、悠々と翼を広げ横切っていった。つられるままに視軸を滑らせれば、今度はそれよりもうんと上空に飛行機を見つけて視線が止まる。白線を引きながらのろのろと横断している小さな鉄の鳥に、まるでなめくじが這うみてェだなァとぼんやり思った。

 そんな間にも少女らの会話はまだ続いている。どうやら話題は人間のことに戻ったらしい。
 つまり人間はヒトガタなの? 玉緒が問えばぬいが違うよと首を振った。

「ヒトガタっていうのは人間みたいな姿形をしてるひとたちのことでしょ、私や玉緒ちゃんみたいに。でも人間をヒトガタとは呼ばないわよ、龍が蛇じゃなくて、狐が犬じゃないみたいなものよ」
「うーん、よくわかんないなぁ」
「私も授業でやっただけだからちゃんと説明できるほどは分からないけど……。あ、ジィさんは知ってるんだよね」

 唐突に話題を振られた老爺は、さてな、どうだっかねェとそらっとぼけた。説明するのが面倒臭い。しかし知的探求心旺盛な子供らがそれで納得してくれるわけもなく、見たことあるんでしょう、としつこく問いを重ねられる。

「ねぇ、いじわるしないで教えてよ。今度テストに出るのよ」
「そうだよ、教えてよぉ」

 熱心に見つめられ、これは答えるまで訊かれそうだと観念した老爺は嘆息すると立てた膝に肘を乗せて頬杖をついた。しばし言葉を選んでから皹の目立つ唇を開く。

「ヒトガタってェのはだな、人間を真似たり、元を辿りゃあ人間だったり、人間の血が濃かったりして、人間みてェなナリをした連中のこった。人間みてェなんだから、人間との違いを見た目で説明すんのは無理があんだよ。そもヒトガタっつっても色々いるだろィ」

 角がある者も尻尾がある者も翼のある者も牙がある者も鱗がある者も手足の数が違う者も瞳孔が横向きの者も顔のない者も目玉のない者も頭だけ違う生き物の者も異様に大きい者も掌に乗るほど小さい者も、
 基本的に人間みたいならば総てヒトガタと呼ばれているのだ。きっと正式な分類や名称が細細とあるのだろうが、人間みたいなのはヒトガタというのが古来からの呼び方で、それが定着しているのでみんな細かいことは考えずにそう呼んでいる。きっと個々によってヒトガタの定義も違うだろう。その程度の曖昧な区別なのだ。

「人間ってェのは、ヒトガタの元の姿をした、何の能力も持たねェしすぐに死ぬ弱い生き物のことだよ」

 かつてはこの島国にも大勢いた。
 そういえば村だの街だのを作り始めたのも人間だったか。

「すぐに死ぬからいなくなっちゃったの?」

 狐の子が訊く。いンや、そうじゃねェよと老爺は首を振った。

「人間てェのはすぐに死ぬがそれ以上に殖えるンだ。あいつらは弱かったから、強い血をどんどん取り入れて増えていった」

 その果てが現代だ。
 どういうことなのと子供らは不思議がる。そんなふたりを指差し老爺は言った。

「お前らだって人間なんだぜ」

 うそだぁ、と少女らは声を揃えた。

「私は狐だよ」
「私は龍だよ」
「そういう家系てなだけだ。人間の血もたっぷり混じってる。人間以外の血も沢山混ざっている。疑うなら親に訊いてみろィ」

 弱かった人間は異形の能力を畏れながらもその絶大な力に魅せられ婚姻を望んだ。
 否、最初はただ純真な恋心からだったのかもしれない。
 けれど人間と異形との間に産まれた子供は多くが長命や異能に恵まれたから、いつしか権力者達はこぞって己の血脈に異形の血を取り入れるようになったのだ。それは権力者達に止まらず、権力を地位を名声を富を求める者達はより強い妖者との婚姻を望み続けた。

 だから、この世界に純血種など殆ど残ってはいない。

 交配と交配を繰り返し、混血と混血が混ざり続けた現代で己の出自を明確に語るのは難しい。血液検査をしてさえ流れる血にどれほどの種が混ざっているのか全て判明させることが出来ない程にそれほど多くの種族が混ざってしまっていて、それが世界的に当たり前だという、それがこの子達にとっての常識なのだ。

「外の国なんぞではまだ人間とそれ以外の区別もはっきりしているらしいが、それでもほとんどが混じり者だろうよ」
「ジィさんも?」
「俺ァ違ェよ。俺は樹だ。この古木が俺の本体だ」

 これ、と言って老爺は老樹に寄り掛かった。外見は朽ちているが中身はまだ生きている。根から水分やら養分やらを吸い上げて、耳を近付ければごうごうと循環するのが聴こえてくる。まだ活きている。
 俺ァ単なる樹だよ。樹以外の何でもねェよ。言って禿げ山の老爺は少女らに視軸を戻した。

「だから、まァ、何だ、人間もヒトガタも、現代じゃあそう違いはしねェよ。お前らも」

 人間だと名乗れば人間だ。
 言い捨てて老爺はぷかりと紫煙を吐き出した。
 少女らが顔を見合わせる。

「でも、街に来ているのは本物の人間なんだよ」
「純血主義の国から来たって」

 そういえば最初はそんな話題だったか。

「まァ国があったのなら純血の人間もまだいたのかもなァ。血を保つには何せ数がいる。……それで、妙に騒ぐが、人間が来たからどうしたってンだ」

 コン、と逆さにした煙管を軽く石にぶつけて吸いきった草を落とし次を取り出しながら老爺は訊く。
 確かにこんなご時世に純血種など物珍しかろうが、それで街がどうこうなるわけでもない。都会と呼べる程では無いがそう田舎というわけでもない街は閉鎖感も解放感も無く、余所からひとが来たり去ったりするのなんて日常のことである。

「旅芸人でも来るならいざ知らず、人間ぐらいでちと騒ぎすぎじゃあないか?」
「騒ぎすぎじゃないもん! あのね、純血主義っていうのは、自分達以外は認めないってことなんだよ!」
「そうだよ、きっと私達を滅ぼしてこの国を乗っ取る気なんだよ、国家転覆だよー」
「はぁ?」

 真面目くさった顔の物騒な主張に細い目を丸くした老爺は随分と面食らったらしくしばし言葉を無くした。が、やがて驚きが通り過ぎると、くは、と大口を開いて宙を仰いだ。笑ったのではない。言葉も無くすほどに呆れたのである。
 何を騒いでいるかと思えばなんとまぁ

「アホくせェ。映画かアニメの観すぎだお前ら」
「あ、アホじゃないよ!!」
「真面目に聞いてよー!」
「シラフで聞いてられるかいンな話。あーあー莫迦莫迦しいくだらねェ」

 言い捨て老爺はごろりと土肌の上に寝転がった。まったく子供というのはすぐに空想を膨らませる。そうして架空の敵を創り出してはそれを打ち倒す自分達を想像しヒーロー気分に浸るのだ。子供同士でごっこ遊びをしている分には微笑ましい限りだが現実との垣根を見失われると巻き込まれる大人は堪ったものではない。
 この様子だと純血主義ってェのも眉唾だな。やれやれと呆れて肩を竦めれば、何を言っても真面目に取り合ってもらえないと悟ったのだろう子供らが肩を怒らせ眉尻を高く持ち上げ、憤懣やるかたないといった様体で地べたを蹴った。

「なにさ、ジィさんのバカ!! 人間に襲われたって知らないんだから!!!」
「助けてあげないんだからねー」

 めいめい怒鳴るとスカートの裾を翻し、ついでにあっかんべーと舌をつき出してから、少女らは荷物をひっ掴むと大股で駆け出してしまった。玉緒など尻尾が倍ほどに膨れ上がっている。
 身体を捻って振り返れば小さな背中は見る見る遠ざかって行って、それを見送りながら老爺は、そんなに走ったら転ぶぞと注意すべきか、それとも襲われたってお前ら小童なんぞに助けなぞ求めるかと返事をすべきか逡巡して、そうしている間に二つの背中は緑に紛れて見えなくなってしまったものだから、やり場を失った言葉に座りが悪くなって包帯の上から頭を掻いた。

「…………ったく、これだから餓鬼は」

 人間が街に来たという、ただそれだけの事だろうに。