「な、なんだァ!?」

 叫び傾いだ身体を支えて咄嗟に窓を見るが、当然ながらカーテンで覆われたそれは何の情報も与えてなどくれない。判りきったことではあったが老爺は八つ当たりのように舌打ちしてから室内を見回した。
 踏みしめる足下はまだ微かに揺れているが、それが地震などの自然災害ではない事は同じく轟いた爆発音が既に証明している。

「――αー4、αー6、応答せよ!」

 アーデルベルトの叩きつけるような呼び声が響く。左耳を押さえているようだが通信機器でもつけていたのだろうか。少なくとも老爺はまったく気がつかなかったのだが。
 それよりも、十六夜の頭部に押し付けられていた銃口が今は天井に向けられている。そちらの方が余程重要だった。

 ――なんとかして餓鬼共を……

 老爺がそう画策したときに、通信機器の向こうと会話をしていたアーデルベルトが苦悶に貌を歪めた。が、すぐさま隊員達へ向けて怒鳴る。

「ヤツだ!」

 ――アリアンか。
 眉根を寄せる。山小屋で待っていろとあれほど言ったのに結局ついて来やがったのかあの餓鬼め。

「標的は南西側の壁を破って侵入、一階は既に制圧された。αー5とαー11は時間を稼げ。ただし、交戦はするな!! 作業の後に本隊に合流せよ」

 視界の端で青が揺れた気がした。
 何――と、思う間もなく蒼天色の光が噴き出し踊る。

「な……!」

 驚愕の声は誰のものか。或いは誰もが上げたものか。
 炎のように揺らめく光を羽衣のように纏いながら、ぬいは静かに立ち上がった。
 その頭部に最早妖力封じの札は跡形も無く、両の腕を拘束していた縄も消えている。
 アーデルベルトが驚愕を貌に張り付け一歩退いた。

「バカな……どうやって……!」
「ばかなひとたち」

 幼子独特の舌ったらずな、それでいて氷の割れる時のような細く冷ややかな妙に通る声音で少女は言った。
 金色の双眸が蒼い光の中でさえなお妖しく輝きアーデルベルトを振り返る。
 瞳孔の縦に裂けた爬虫類の瞳。
 龍の眼。

「あれだけ時間があればこのくらいの呪縛を壊せるくらいの妖力、溜められるわよ」

 お生憎様ね。言いつつ伸ばされた指先で燐光が弾けて、殉ずるように十六夜と玉緒の拘束具が瞬時に燃え上がる。
 老爺はただ唖然とそれを視ているばかりだ。

「あまり、龍族を舐めないで欲しいわ」

 見知った少女は見知らぬ女の貌でそう冷罵した。

「今は君達に拘っていられるような状況では無い。大人しく――」
「だったらおいとまさせて頂きます。玉緒ちゃん窓割って!!」
「らじゃー!!!」

 小さな体躯がテーブルに飛び上がり弾丸のように跳ぶ。男達が武器から手を離し腕を伸ばすよりも玉緒の廻し蹴りが決まる方が速かった。カーテンの向こうで観音開きの窓が派手な音を弾かせ開く。開け放たれたそこから強風が室内へ吹き荒れた。暴れるカーテンに巻き込まれた隊員がもがいている。
 射し込んだ茜色の鮮烈な光に眼が眩む。

「十六夜君、玉緒ちゃん、とんで!」

 怒号に十六夜が駆け出す。バルコニーへ飛び出した玉緒の後を追うように光の中へ。

「警察に通報して!!!」
「待て、突入はさせるな!!」

 咄嗟に叫んだ言葉は届いただろうか。小さな背中はもう見えない。届いたことを祈るしかない。突入すれば、きっと殺し合いになってしまう。誰も彼も死んでしまう。それは阻止しなければならないのだ。死者は出したくない。
 警察が来る前に事を収めなければ。
 不意に裾を引かれて視線を下ろした老爺はぎょっと眼を見開いた。

「っな、なんで逃げてねェんだ、ぬい!!」

 水龍族の少女が老爺のすぐ隣で寄り添うようにして立っている。てっきり二人と同じく逃げたものと思っていた老爺は驚愕と批難を織り混ぜて怒鳴ったが、ぬいは涼しい貌で溜め息を吐いた。

「ここ、三階なのよ。私は玉緒ちゃんほど運動神経よくないし、十六夜君みたいに翔べないもの。まだ龍に変化出来ないもの私」
「だからって……」

 バルコニーに出て姿を隠していることも出来た筈だ。いや、玉緒の運動能力ならばぬいを背負って飛び降りることも充分に可能だっただろう。そこに思い至らない少女では無い。
 疑問符の浮かぶ老爺を見上げて、あのねぇとぬいは母親が子供を窘めるような口調で言った。

「ジィさん弱いんだから置いてなんていけないわよ、ばか」
「ば……莫ッ迦野郎、餓鬼が大人の心配なんざ百年早ェんだよ!! いいから逃げろ!」
「イヤ」
「それは困りましたな」

 声に老爺と少女は同じく顔を上げる。その先ではアーデルベルトが廊下へ続く扉を睨んでいた。

「逃がす手間が省けたと思ったのだが居残られるとは」
「逃がす……?」

 逃がす算段だったというのか。折角の人質を。
 彼は乾いた音で短く自嘲した。

「アレの襲撃を受けて、貴殿方を護るだけの余力は我々に無い」

 遠い位置で爆発音が轟いた。足元がびりびりと微振する。

「ライトを消して配置につけ。二人もバルコニーへ」

 もう一度爆発音。さっきのよりも心なしか近い。
 隊員が二人、扉を開けて入ってきた。室内にいる隊員の数はアーデルベルトも含めてこれで九人。これが残存兵力なのだろうか。
 ランプが消され光源は背後の夕焼けのみとなる。まだ沈むには間がありそうだ。
 他の隊員もバルコニー側へ下がるのを視て、漸く老爺とぬいも従った。
 また、爆発音。カーテンが閉められて室内が見えなくなった。内側で押さえているらしく裾をはためかせながらも開く様子はない。

「どうする気だ」

 すぐ前に立つアーデルベルトへ問うた。

「殺します」
「死なねェんだろ」
「ええ、ですから何度も殺します。殺し続けて動きを止め、拘束を試みる」

 風が吹く。夜を運ぶような冷えた風。老爺は何も考えず風から庇うようにぬいを抱き寄せた。

「――屋敷にいた人形は、結局どうしたンだ手前ェら」

 協力を頼めれば随分助かるだろう。

「もう居ない」

 返答は短かった。

「我々がこの屋敷へ侵入した時にはもう、窓辺の椅子から動くことも出来ないようだった。屋敷を頼むとあれこれ言われたよ。綺麗に使えとかね」
「守れてねェな」

 また何処か近くで爆発音が弾ける。

「まったくだ、面目無い」

 彼女に叱られてしまうな。という声が風に浚われて夕空へ消えた。
 そのひと吹きを最後に風が止む。
 ――ギィ……
 カーテンの向こう、扉を隔てた先で階段の軋む音が微かに届く。鼓膜を震わす。……上って来る。
 アーデルベルトが一歩、後ろへ下がった。合わせて二人も下がる。

「アレを殺しきる方法を教えてくれませんか?」

 このままでは貴方もその娘も死んでしまいますよ。

「話し合いで解決、てェ芸当は出来ねェのかよ手前ェら」
「ははは」

 また一歩下がる。

「我々は喧嘩をしているわけでは無いよ主殿。世界の為に、我々はアレを殺さなければならない。和解は無い」

 背中に手摺が当たった。振り向けばもう後ろは無い。だが、まぁ手摺があるだけマシだろう。ぶつかった場所のすぐ横から先の壁は老朽化が原因か抉られたように崩れている。見下ろせば延び放題の芝生と雑草と垣根が見えた。

「ずっと隠していればよかったじゃない」

 ぬいが叫ぶ。恐怖に引き攣れた声に老爺は少女の肩を抱く手に力を込めた。

「なにも殺さなくったって、隠れていればよかったのよ、ずっと!」

 ――死ぬまで。

「秘密は必ず露呈するものだよ、お嬢さん」

 軋む音が途絶えた。

「さぁ、時間がない。教えてください、アレを」

 殺す方法。
 そんなもの――

「手前ェで考えやがれ」

 ふっ……と、アーデルベルトは微かに微笑んだ。

「そうですか」

 その右腕が老爺の胸倉を掴んで

「では――」

 ――あなたがアレを殺してください。
 どん、と
 押した。

「――あ?」

 がぁと喧しくカーテンの引かれる音。アーデルベルトの怒号。けたたましい連続した打音がいつまでも続く。それらが急速に遠ざかる。
 ――落ちている。
 落下している。
 把握すると同時に腕の中のぬいを強く抱え込んだ。





「――ジィさんッ!!」

 泣き叫ぶ声に呼び起こされた。
 深海から水面へ飛び出すように一気に意識が浮上して、ぽたぽたと顔を滴が叩くのに目蓋を上げる。
 身体が動かない。

「ジィさん、ジィさん、ねぇジィさん!!」

 死んじゃやだよぅ
 ぬいが泣きじゃくっている。

「……ば、かやろ」
「ジィさん!?」

 ごぽりと変な咳が出た。
 ぬいの泣き顔の向こうに藍色と茜色の混じる空と、それより手前にバルコニーが見える。あそこから、突き落とされたのか。
 殺す気かよあの莫迦野郎。

「死ぬか、ばか。あのな、こりゃァ偽躰だ。前にも言っただろゥが、俺の本体は」

 あの枯れた樹だよと、言い切る前にぬいにしがみつかれた。
 げほりとまた咳が出る。落下の衝撃で何処か内側が壊れたのかもしれない。

「おい――」
「死んでるの」

 少女の身体は震えていた。

「上で、死んでるの! いのちが消えていくの……! みんな死んじゃう、あのひとたち、みんな、死んじゃうよぉ……!」

 こわい、と、ぬいは泣きじゃくった。幼子そのものの様態で取り乱している。その後ろの空から雨が降ってきた。
 ――否、空は晴れている。一番星が瞬いている。
 濡れた頬に触れてみた。

 赤い。

 どっと、津波に呑まれるようにして一気に外界の音が耳に入ってきた。アーデルベルトの怒号。耳慣れない打音。あれは銃声か。それらに被さって、驚くほど鮮明に何かが潰される音がした。
 ぬいの肩が大袈裟なほどびくりと跳ねる。いや、と、か細い声が洩れる。耳を塞いで少女は何度も頚を振った。

「いやいやいやいや、いやぁ……!」
「大丈夫だ」

 何がだ。
 根拠なんて無い。むしろこれは嘘だ。何も大丈夫な事なんて無い。
 すぐそこでひとが死んでいる。
 それでも大丈夫だと繰り返してその頭を抱えるように撫でた。

「いいか、ぬい。しっかり耳塞いで、走れ。此処から離れろ」

 なんとか上体を起こせた。この偽躰はガタがきている割に頑丈なようである。ただ左腕は肩がイカレたのかまったく感覚が無い。
 脚は。
 ……なんとか動きそうだ。

「なんで!? ジィさんは……!?」
「俺ァ、あー……」

 銃声が
 怒号が
 聴こえている。
 まだ、
 ――生きている。

「俺ァ今すぐには動けそうにねェから、後から行くよ。それまでは警察連中に入ってくるなと言付けてくれ……頼む」
「…………わかった」

 立ち上がったぬいには見たところ怪我をしている様子は無くて安堵した。

「ねぇジィさん」
「何だ、早く行け」
「死なないものを殺す方法なんて本当にあるの?」

 問い掛けに、一瞬だけそれ以外の音が遠退いたような気がした。
 勿論ただの錯覚だ。
 謐とした眼差しにはそんな錯覚を起こさせるだけの力があった。

「……さァ、どうだかな」
「知らないのね」

 疑問符ではなく確信を持ってぬいは言った。

「ジィさん、そんな方法なんて知らなかったんでしょう」
「それは」

 ――その通りだ。

「当たり前だろゥが、再三言ってるぞ。俺ァ、ただの」

 あの山の頂上にぽつんと立っているだけの、
 ただ古いというだけの、

「ただの、枯れ木だぞ!? 書物もTVもネット環境も無ェ野晒しに生えてるただの樹だ! それが一体ェ何を知ってるよ笑わせる」

 世界、なんて。
 そんなものを見通す目なんて持っていない。
 この街で起こっている全ての出来事すら把握出来てはいないのに、
 世界の全てなんて知っている訳が無いではないか。

「どうして教えてあげなかったの、知らないって」
「言ったところで信じやしねェよあの手の手合いは」

 隠していると秘匿していると答える気がないのだと、そう解釈されただろう。

「そう……そうね」

 ぬいが頷く。頷いて、哀しそうな眼で微笑んだ。

「かわいそうなひとたち」

 その両目からまた涙が溢れ出る。
 可哀想。
 確かにそうだ。
 国が滅んだ時に、事後処理なんて考えずに自由に生き直すことだって出来ただろうに。
 こんなところで武器を持って戦っている。
 たった一つの命を賭けている。

「――行け」

 何かが叩き付けられる音が響いた。
 ぬいの身体が竦む。

「走れ!!」

 怒声に、弾かれたようにぬいが駆け出した。建物に沿って角を曲がって見えなくなる。
 見上げた先ではまだ銃声が続いていた。
 ――嗚呼、本当に……

「可哀想な連中だ」

 腹が立った。
 くだらない。
 人間とか化け物とか、
 そんな本当にくだらない事で生き死にしている。

「莫迦野郎どもめ」

 立ち上がる。
 老爺はよたつきながらも歩き出した。




 ――生臭い。
 それに焦げ臭い。
 室内から吹きつけてきた風に老爺は顔を顰める。
 三階の、あの部屋の入り口に老爺は立っていた。
 上ってくるのに随分苦労してしまい、もう陽は暮れきっている。途中で警察車のサイレンが聴こえてきたけれど突入してくる気配は無かった。十六夜とぬいが言付けてくれたのだろう。それでもあまり時間は無いだろうが。
 室内は廊下より幾らかは視界が良かったが、それでも明るいとは言い難かった。

「だれだ?」

 夜色に染まった部屋の奥から声が聴こえた。

「……殺したのか」

 銃声は、もうとっくに聴こえて来ない。

「なんだ、ジィさん生きてたのか」

 嬉しそうな声が弾む。
 扉のあった場所を通過して室内へ踏み入った。
 歩く度に草鞋の下で絨毯が湿った音をたてる。

「全員、殺したのか」

 薄闇の中にはアリアンと老爺以外に動くモノも喋るモノもいない。
 窓の両端で分厚いカーテンが重たげな動作ではためいている。
 窓の向こうには街の明かりが見える。
 夜空には雲一つ無い。
 月は見えないけれど明るい夜だった。
 たぶん今夜は満月だ。

「あぁ、みんな殺した」

 殺してしまったとアリアンは言う。
 バルコニーの中央にたたずみ問う。

「ひとごろしはいけない事なんだよな、ジィさん」
「ああ」

 やってはいけない事だ。
 そう人間が決めた事だ。

「分かっているならどうして殺した」

 お前は人間なんだろう。
 荒れ果てた室内を慎重に歩み進めながら言った。
 莫迦莫迦しい質問だと老爺は自分で思う。
 なんでもどうしても無い。殺されるから殺したのだろう。互いに、殺されるから相手を殺し合ったのだ。その果てに死なない奴だけが残ったという、それだけの図だ。


「オレは化け物なんだよ」


 予想外の返答に老爺は言葉を詰まらせた。

「アンタいろいろ言ってただろう。それでオレは考えたンだ。たくさんたくさん考えたンだ。オレは何なんだろうって。オレの役割は何なんだろうって」

 ……何の、

「何の話をしている」
「殺した理由だよ」

 訊いたのジィさんだろうに。やっぱりジィさんは変だなァとアリアンは笑う。

「それで、そうそう、気がついたんだよ。オレは」

 ――化け物なんだって。
 言い切るその口調は清々しげだった。

「ジィさん当たってたよ。オレの役割は英雄なんかじゃなかったんだ。オレはさ、」

 やっぱり魔王だったんだよと嬉しそうに彼は言った。

「オレをつくったやつが本当に望んでいたのはコレだったんだ。やっと気がつけたよ。こうやって何もかもを壊して、それで殺されるのがオレの役割だったんだ」

 ありがとう。
 ありがとうジィさん。
 嬉しそうに幸福そうにアリアンは言う。
 老爺は頭を左右に振った。

「違う」

 アリアンが不思議そうに頚を傾げる。

「違う、役割なんてもんは無ェ」

 超次元的な存在の意思なんてものは介入していない。
 人生はそんな得体の知れない何かに決められている安っぽい台本では無い。
 生まれついたのが人間だったり世界樹だったり化け物だったりそれ以外の何かだったりしたのはそれは全部

 偶然だ。

 どういうふうに生きろとか何を成し遂げろとか何を目指せとか、
 周囲はてんで好き勝手に要求してきたり期待してきたりするかもしれないけれど、それはそいつらの言い分であって世界の意思なんて大層なモノでは無い。
 世界はそんな分かりやすいものを与えてなどくれない。

「人生に決められた役割なんてもんは無ェ!!!」

 どう生きるかを選ぶのも決めるのも、どれだけ外的要因が積み重なろうが結局最後は自分自身だ。
 決められた役割なんて無い。役割を選ぶ自分しかそこにはいない。
 だから、世界はもっと――自由だ。

「違うよジィさん」

 ばっさりと、彼は老爺の言葉を否定した。

「この世界には決められた役が確かにあるんだぜ、ジィさん。オレ達は誰もその中から好きな役を選べないし逃げられない。選ばれて決められて、そしたら後は筋書に沿って生きるしかねェんだよ。だからオレは」

 自分が選ばれた役をめいいっぱい楽しんで演じきって生きて死にたいンだ。

「だから殺した。みぃんな殺した。だってオレは殺すために生まれて殺すために生きてきたから殺すことしか知らねぇのだから、だからきっと殺すことがオレの役割なんだ。それで殺すのはいけないことで人間は誰も殺さないのなら、殺すために生まれたオレは化け物だし、化け物なら英雄じゃなくて」

 ――魔王だろう。

「オレは何もかもを壊したり殺したりする魔王の役なんだ」

 そう言ったアリアンの貌は笑顔で
 子供のように無邪気な笑顔で
 ――嗚呼、壊れている。
 心底そう思った。
 ――どうしようもない。
 どうしようもなく、壊れている。
 どうしようもなく、哀しくなった。

「…………じゃァ、俺も殺すのかィ」
 静かに問う、その脚がバルコニーへ辿り着く。もうたったの二歩分しか距離は無い。
 老爺は――諦めていた。放棄していた。この壊れた男を説得する事も、止める事も。
 アーデルベルトの言う通りだったのだ。この男を生かしておくという事は、それ以外を危険に晒すと云う事だった。彼はこれから大勢殺すだろう。化け物であることを受け入れてしまった彼は誰よりも化け物らしく生きるだろう。
 だけれど、

 ――殺す方法など知らない。

 死なない者を殺す術など世界樹は知らない。
 だからもう、どうしようもない。
 ううん、とアリアンは頚を捻ってそれから

「いや、ジィさんは殺さねェ」

 きっぱりとそう答えた。
 老爺は驚きに眼を瞬いたが、次いで胡乱げに貌を顰めた。

「あァ? なんでだよ」

 別段殺されたいわけではないが理屈に合わない。この男はなにもかもを壊すとのたまったのだから。
 うん。と幼子のような動作でアリアンは言う。

「ジィさんはオレに家をくれただろう」

 言ってひとつ指を折る。

「オレを叱ってもくれただろう」

 人差し指が曲げられる。

「それから、助けようとしてくれた」

 中指も折り曲げられる。

「みっつだ。ジィさんはみっつもオレにしてくれた。ジィさんはイイヤツだ」

 指折り数えるとはしゃいでそう言い、ひゃひゃひゃと嬉しそうに彼は笑った。

「だからオレはジィさんに決めたンだよ」
「な、なにを」

 狼狽える老爺など御構い無しに、にんまりと口を横に広げて笑むとその壊れた男は、自称魔王は、告げた。



「ジィさんが、オレの英雄だ」
 ――オレを殺す英雄だ。



 目眩がした。

「ば……莫迦か、何言ってンだ手前ェ」

 意味が解らない。 理解できない。

「俺に殺されるッてのか」
「そうサ。ジィさんに殺して欲しいンだ」

 ――ジィさんが殺さないといけないンだ。
 そう嬉しそうに言った男は傍らに落ちていた分厚い刃のナイフを拾い上げて老爺へと差し出した。 その貌があんまりにも穏やかだったから、
 どっと、噴き出すように怒りが込み上げて拳を握った。

「生きたいンじゃァなかったのか」

 死にたくないから逃げたと言ったではないか。

「手前ェ、殺されるのが厭でこいつら殺したンじゃねェのかよ!!! 俺が殺せ!? 莫迦か!! 死にてェのならこいつらに殺されりゃァよかっただろうが!!!!」

 こいつらは、アーデルベルト達は、
 何のために死んだんだ。お前が死ぬというのならば。
 無償に腹が立った。

「コイツらはダメだ」

 平然と、ナイフを差し出したまま彼は言う。

「何が駄目だよ。駄目な事があるかよ」
「ダメだ。コイツらは連れていく」

 ――だってコイツらはオレと同じ国の連中だ。

「そ、それがどうした」
「オレをつくった国の奴らだ」

 だから連れていくと、そう言い切られた。
 わけがわからない。

「手前ェの言うことは訳が理解らねェよ」

 言えば彼はまた笑った。愉快そうにあのひゃひゃひゃという独特の笑い声で。

「そうかィ、まぁ別にいいよ」

 理解してくれなくッてもいいよ。
 ――殺してくれれば、それでいいや。

「殺さねェよ」

 ナイフが視界に入らないよう外方を見ながら老爺は怒鳴る。

「なんで俺が殺すンだよ、莫迦か。俺ァな、虫だって殺せねェんだぞ」

 傷つけるのは厭だ。傷つかれるのも厭だ。
 ただでさえ生き物は簡単に死んでいくというのに。
 あっという間に消えてしまうというのに。

「――出来るかよ、莫迦野郎!!」

 怖い。
 その感情は紛れもない、恐怖だ。

「なんでだ? 殺さなければオレは大勢殺すぞ」

 なんでもなく言われた言葉に息を呑む。だけれど、それでも、
 老爺は頚を左右に振った。

「……俺ァ、樹だぞ!? ぽつねんと生えているだけの、ただ見ているだけの、樹なんだ! 生き物殺すのは生き物だろう。まして俺は毒草でも食虫植物でもねェただの枯れ木だぞ!! それが――」

 傷つけるとか 奪うとか 殺すだなんて
 ――冗談じゃない。

「殺せるかよ、莫迦野郎……!」

 悲鳴のような老爺の主張に、彼は不思議そうに頚を傾けた。

「変なヤツだなァ、ジィさんは」

 妖樹なのに。化け物なのに。
 誰も殺せないだなんて。

「まるで人間みてェだな」

 ひゃひゃひゃと笑う。

「オレが化け物でジィさんが人間だ。最初と逆だな」

 笑いながらそう言う。その声があんまりにも楽しそうだったから、莫迦野郎と怒鳴り付けようとして老爺はつい彼の方を見てしまった。

 濃藍色のキャンパスに住宅街の明かりをちりばめた夜空を背後に背負って立つアリアンは子供みたいに無邪気な貌で笑っている。
 血塗れのナイフを差し出しながら、笑っている。 そのつり上がった口許はまるで、
 三日月のようで――

 手のひらの中の硬い感触にはっと息を呑んだ。

「な、なんで」

 ――どうして俺はナイフを持っている。

「ジィさん」

 呼ぶ声に顔を上げる。

「殺してくれ」

 そう言って、ナイフを握る老爺の手を掴んで引き寄せた。
 刃がアリアンの首に当たる。食い込んで、
 血が、

「やめろッ!!!」

 ぞわぞわと全身が怖気立つ。腕を引けばナイフは二人の間で均衡し揺れた。

「なぁ、殺してくれよ」
「巫山戯ンじゃねェぞ莫迦野郎ッ」

 生きたいと、死にたくないと、言ったくせに。
 屋敷に来る途中に聴いたあの言葉は紛れもなくこの男の本心だったのに。
 なのにどうして

「どうして、死ぬンだよ……!」
「仕方がねェよ」
「仕方が無いなんて事があるか!」

 どうしてこの男は 笑っているんだ。

「言ったろう、世界には仕組みがある」
「無ェよ」
「仕組みに沿っていれば何でも出来るけど、仕組みに逆らう事は出来ねェんだ」
「だから……!」

 そんなものは無い。

「あるサ」

 ――だからオレは生まれた。

「オレの役割が魔王なら、オレは仕組みに沿って死ぬしか無ェんだよ」

 死ぬまでは殺し続ける。誰も彼もを殺し続ける。

「殺したくないんだ」

 死ぬのもイヤだけど、

「ジィさんとか、あの子供とか、オレ、殺したくないんだよ」

 ――だから、

「だったら殺さなけりゃァいいだろうが」
「殺しちまうよ。だって――」

 オレはそういうふうに生まれてきたのだから。
 言い切る口調にも表情にも、悲嘆や諦観は無い。
 まるで青い空を指差して空が青いと言うような、当たり前の事を当たり前に言うような、そんな調子だ。

 これが、この男の、この男にとっての紛れもない常識なのだ。
 彼にとって世界とはそうなのだ。 彼は死ぬまで、このようにしか生きられないのだ。

 その事に老爺は気がついて、
 無償に、どうしようもなく、心底から、
 腹が立った。

「……そうかよ」

 ナイフを持つ手に力を込める。
 空いた手もその上に重ねて、
 アリアンの手からナイフを受け取った。
 街明かりが刃先で煌めく。

 アリアンが笑って、
 嬉しそうに、幸福そうに、
 膝をついた。
 ナイフを逆手に握り直す。

「じゃァ――」

 ――殺してやるよ。
 その差し出すように晒された首へ
 ナイフの刃が、