老樹街にはその名前の由来になった古い樹がある。
 小学校の背後、と云うには少し距離を空けた先に聳える校舎の倍程度の標高を持つ山の頂上の、丁度中心でその樹は指枝を広げている。 大きな樹だ。

 円い幹は莫迦みたいに太く成人男性4人が輪になって漸く一周できるかどうかというほどで、樹皮は岩板のように硬く、大きな無数の縦線と、亀裂に似た網目状の非常に微細な筋が幾万幾億数える気も起きないほどに刻まれている。外へ空へと延びる枝は太く頑丈な部位ばかりで新しい枝が延びた様子はない。春夏秋冬幾度季節が巡っても、青葉が繁った様子を見る者はいないだろう。
 既に枯れているのである。……それでも、この老樹は活きている。

 その節くれだった枝に一羽の鴉が降り立った。
 鴉はくりくりと頚を捻って地上を見下ろすと、やがて再び翼をばたつかせて根本近くにある低い岩の上に停まり直した。
 その鉤爪が、細い足が、羽毛に覆われた体が、翼が、小さな頭が、嘴が、瞬き程度の間に人間の少年へと変化する。
 そうして大烏十六夜少年は岩の上に腰を下ろした。

「ようお喋り坊主、自宅謹慎は解けたのかィ」

 ぷかり、紫煙を煙らせて老爺が言った。老樹の根に胡座をかいて、いつもの包帯に法衣の姿で煙管をふかしている。
 ――あの事件から五日が過ぎた。

「う、うん。……あの、ぬいちゃんと玉緒ちゃんは?」

 山頂には老爺と少年の姿しか無い。

「今日は休日だろうが。あの二匹が来るのはいつも学校帰りだよ」

 二人で映画を見て、買い物をするのだとよ。言って老爺はコツンと根で煙管を叩いた。炭化しきった塊が地面に転がる。

「狐娘なりの気遣いだろう」

 新しい葉を丸めて詰めながら呟くように言われ十六夜は俯いた。
 十六夜と玉緒が逃げた後の大まかな顛末は父親から聞いている。
 陽が暮れきってしばらくたって、流石にもう待てないという頃に漸くジィさんは屋敷を包囲する警官達の前に現れたらしい。

 血塗れの姿で。
 彼らの持っていたミリタリーナイフを持って。
 ……人間達は皆死んでいたそうだ。

 警官らと現場へ踏み入った父親に老爺は、軍服を着た死体達の中で異彩を放つ着流し姿の死体を指差して、
 ――この魔物が全員殺した。だからコイツは主の判断で、俺が殺した。
 そう言ったと云う。そしてコレこそが彼らの持ち出したソニア共和国の兵器であり、即座に処分せねば毒となり魔を生む苗床になると、そう説明したそうな。
 その首の無い死体は、だから日付が変わる前に焼却処分されたらしい。骨さえ残っていないと父親は言っていた。
 三日前からひっきりなしに流れているニュースでは十六夜達子供らの事は一言も言及されていない。三人は現場に居なかったらしい。秘匿されたのだ。そういう事にした方がいいからと、繰り返し説明された。

 ――過激思想を持つ武装集団が生物兵器を所有し密入国。目的は明瞭ではないがテロ活動を画策していたものと予想される。しかし彼らは潜伏中に兵器の扱いを間違え自滅。その兵器も、通報により駆けつけた警察官らによって処理・処分された――

 ニュースは連日そう報道している。 嘘ばっかりだ。
 でも、それは仕方がないんだろうという事くらい分かる。大人の事情というヤツだ。真実は大抵、おおやけにされない。
 それはそれでいい。でも――

「あの人達は、本当に死んじゃったの……?」

 ――十六夜自身は、事実が知りたい。
 煙管に火を回していたジィさんは顔を上げもせずに答えた。

「死んだよ」
「みんな?」
「あァ、全員死んだ」

 死んじまったよ。溜め息を吐くように老爺は言う。

「…………あのおじさんも?」

 子供よりも子供みたいな貌で笑う、あのおじさん。

「アリアンなら死んだ」

 はっきりと、聞き間違えようもないほどきっぱりと、老爺は答えて煙管をくわえた。

「ジィさんが……殺したの?」
「そうだ」
「……本当に?」
「あァ」

 どうして、とは何故だか訊けなかった。
 ジィさんは先程からずっと、どこか遠くを見ている。
 あるいは何も見てなどいないのかもしれない。

「……ねぇ、ジィさん」
「なんだ」
「この世界には、人間なんていないのかな」

 人間の国は嘘の国だった。
 人間だと名乗っていたのは十六夜らと同じ化け物だった。
 ――十六夜が憧れた人間は、単なる噂に過ぎないのだろうか。

「ンな事ァ無ェよ」

 ふぅと、紫煙が吹き出された。

「そこかしこに居るだろゥ」

 老爺の緑と白と黒の瞳が十六夜を見る。

「いいか小僧」

 ――肉体が鳥だろうが魚だろうが狐だろうが機械だろうが何だろうが関係無い。

「自分は人間だと思っているのなら、そいつは人間なンだよ」

 他人と共和し社会を築きそこに在るならば、
 それは、人間だ。

「……そういう話じゃないんだけど」
「カカカ」

 笑うジィさんに、真面目に相手をしてくれる気がないらしいと判断した十六夜はむくれて足をばたつかせた。

「いいよ、もう、大人になったら自分で確かめるから!」
「おゥ、そうしろそうしろ」

 呵呵と笑うジィさんはもう普段通りのジィさんで、さっきまでなんだか痛そうな悲しそうな貌に見えていたものだから十六夜は安心したけれど、それはそれとして子供扱いが腹立だしくもある。
 実際、世界の誕生から地上に居る世界樹から見れば十六夜なんて赤子同然なのだろうけれども。
 はぁと疲労感たっぷりの溜め息を吐き出して十六夜は立ち去ろうとした。

「よゥ、ひさしぶりだなぁ」

 ――けれど、背後から声が掛けられて動きが止まる。
 聞き覚えのある声だった。

「莫迦野郎、初めましてだろうが」

 何度言や覚えやがるんだ手前ェはとジィさんが罵って、背後の声はひゃひゃひゃと笑う。

「まァいいじゃねェか」
「良くねェから言ってンだよ」

 ――アリアンはもう死んだだろうが。
 老爺の言葉に、ばっと音が立つほどの勢いで十六夜は振り返った。
 もう十六夜のすぐ傍まで歩いて来ていたのはジィさんと同じ法衣を着た男性で、その顔は首まで包む虚無僧笠に隠れて見えない。
 だけど、でも、間違えようがない。

「お、おじ……!」
「お前は初対面だろう十六夜」

 ジィさんのにやついた声に首を巡らせる。
 声のまんまに笑みを浮かべたジィさんは、煙管で彼を指すと言った。

「紹介するぜ。俺の知人の、妖怪首無しだ」
「え、ええええ!!?」

 何が何やらわからない。
 驚愕に叫んで二人を忙しなく見比べる十六夜に、

「よゥ、初めまして。怪我は治ったか?」

 首無しはそう挨拶して、またジィさんに叱られたのだった。





END?