「えーっと……で、結局どういう事だってんだ?」 リクライニングソファに身を沈め、肉まん片手に朋幸がはてなと首を傾げた。正面、ローテーブルを挟んだ向こうには魔王がちょこんと正座させられている。クッションも何も与えられていないが、まぁ絨毯が敷いてあるので痛くは無いだろう。それにしてもしかし緑と白色で植物を写実したペルシャ絨毯の上で、黒ずくめ姿のなんと場違いなことか。魔王自身もそれが判るのか、それとも別の理由か、居心地悪そうに肩をすぼめている。 はぁ、と朋幸の隣で溜息が落ちた。 「それは私の台詞じゃない?」 細長い指で米神をおさえているのはこの部屋の主、月代真李亜だ。ピンクに黒でラインの入った長袖シャツに黒のロングパンツという部屋着姿なのは朋幸が事前連絡も無しに魔王をつれて来たせいである。それにしてもメイクをする様子も無いのは開き直りか、それとも魔王を異性として認識することをやめたのか。後ろで適当に纏められた髪束が好き勝手にウェーブを描いて動作の度に揺れている。その様子は、怒れるメデューサの頭髪に見えなくもない。 じっとりと、向けられた視線にそれこそ石にでもなったように魔王はぴしりと居住まいを正して強張った。 「あなた、どうしてここにいらっしゃるのかしら?」 殊更丁寧に一語一句はっきりと、紡がれた声音には明らかな棘がある。その顔は表情を作っておらず、鳶色の瞳ばかりが煌と感情を主張していた。それがどのような感情かは言うまでもなさそうだが、怒りである。 魔王が唾を飲み込むような動作をした。 「お、俺は、朋幸の傍にいたい」 「意味が解らないのだけど。フラれるどころか眼中外だっていうのにこんなところまで押しかけてきて、図々しいにも程があるんじゃないかしら」 ぴしゃり。言い捨てられて魔王が呻く。朋幸はといえば、何の話なんだろうかと疑問符を浮かべつつ肉まんを咀嚼していた。完全に他人事である。しかしここで朋幸を会話に混ぜると混ぜっ返して迷走することは目に見えているので真李亜はひとまず標的を魔王のみに絞って口を開く。 「それとも、女々しいと言ったほうが適切かしら」 「そ、それでもっ」 魔王の真っ黒い、室内灯も窓からの日差しも飲み込んでただ漆黒の瞳が、キッと真李亜を睨んだ。 「俺は、朋幸の傍に……いる」 強情な声音に、言葉に、強固な意思を感じて真李亜はふぅと吐息し頬へ手を添える。このヘタレでメンヘラの非常識男は開き直りを習得してきたらしい。なんてたちの悪い。真李亜は双眸を剃刀のように細くして、僅かに首を傾げて見せた。 「それって、まさか私の家に出入りする事も含めていないわよね?」 「だ、だめなのか」 「迷惑ね」 ぴしゃんとまた一言。 「で、でも、朋幸の傍にいるだけで」 「家の中に見ず知らずの男にいられるだけで迷惑ね」 「……じゃあ、家の外でがまんする……」 「それもそれで迷惑なんだけど」 ストーカーが増えるようなものだ。顔見知りなのだから構わないだろう、とは思わない。そもストーカー被害の実に八割が知人による犯行なのである。顔見知りだから、なんていうのは何の慰めにも理由にもならない。 「だったらどうすればいいんだ」 途方に暮れた呻きに、ここで怒らないからヘタレなのよね。などと内心で酷評しつつ腕を組む。 「だいたい、あなた仕事は? 家はどこ? 一人暮らし? 朋幸の傍にいたいったって、あなたも生活があるでしょうに」 「……?」 はて、と魔王が首を傾げる。何を言われているのかよく解らない、という顔に、嫌な予感がした。 「朋幸が説明していなかったか。俺は魔王だ。仕事も家もそもそも無い」 臆面もなく、言い切って、何故か胸を張る魔王。今度は真李亜が固まる番だった。「ちょ、待って……あー……」額に手をそえ、数秒呻き熟考。そうしてから、半眼で魔王をじっとり見据え、 「冗談?」 「事実だ」 「それが事実だと、あなた、無職のホームレスってことになるけれど?」 「…………」 沈黙。ひくしっ、と魔王が顔を引き攣らせた。 「いや、待て、それは違う」 「事実って言ったじゃない」 「事実だけど違う。そういうのはなんか違う」 なんか違うらしい。 「じゃあ、職業と住所を言ってごらんなさいよ」 「ぐぅ……」 呻く。忙しなく視線をさ迷わせて、はっしと朋幸を見つめた。 「と、朋幸」 「ん、なに?」 「魔王は職業だろうか」 「えー……金貰ってるなら?」 「…………」 沈黙。まぁ、貰っているわけも無い。 そんなやりとりを見据えていた真李亜は苛々と米神を指で叩いて、長く息を吐き出した。そもそも、と語尾を怒気に熱くし言う。 「魔王って何よ。いつまで続ける気、そのふざけた設定」 胡乱な眼差しは魔王へ向けて。当の魔王はといえば、きょとん、と驚いたような顔をして目を瞬いて、それから僅かに眉根を寄せた。そんな様子に気づいているのか、真李亜は苛々と続ける。 「身元を隠したいにしても、もう少しマシな作り話があるでしょうに。声も。そんなエコーかけてそれっぽくしたってダメよ。どうせ変声機みたいなのが襟のどこかにつけてあるんでしょう」 観念なさいと糾弾する言葉の羅列に、魔王は言葉も無いようで、顰めていた眉をまた驚きにぱっちり開いた。そのまま数秒沈黙が落ちる。どうしたのかと真李亜が訝しみ出した頃になって、漸く魔王は口を開いた――朋幸の方を向いて。 「見ろ、朋幸。これが普通の反応だ。そうだ、これが普通の反応じゃないか。女、お前の反応は正しいぞ」 「マリアだ」「真李亜よ」 「あぁ、うん、マリア。はい」 「普通って何よ。結局あなた何なの?」 「――魔王だ」 斬、と断ち切られたように空気が変わった。身構えることも拒否した突然の異変。一切の物音が消え失せて、耳に痛いほどの静寂が室内に沈殿する。それは霜が降りてきたような、しっとりと肌寒い静寂だった。息を呑む。呑んだ息を、吐き出せない。静寂に、沈黙に、溺れてしまったように呼吸が出来なくて、真李亜はもがこうとした。けれど、 沈黙がまとわりつく。全身に絡み付き、凍り付いてしまったようだ。 動けない。 寒い。肺が、臓腑が、心臓、が、温度を失っていくのがわかる。 瞬きを忘れた目が恐怖に震えた。 誰か、 「魔王」 燦、と、声が静寂を割いた。 「やめろ。お前のこと嫌いになるぞ」 「ごめんなさい」 即座に謝罪し平頭。がすんっと痛そうな音と共にテーブルが震えた。凍りついた空気が一瞬で霧散する。息をつく真李亜と頷く朋幸。 「ん。許す。っていうかマリアもさーいじわるしてやんなよー」 「いじわるって、あんたねぇ……」 私の常識的な主張と良識的見解を”いじわる”なんて四文字で片付けるか。と雄弁に語る口調と吐息に、しかしその弁は聞き取られなかったらしい。朋幸は魔王を指差すと 「こいつ本当に魔王なんだよ」 などと、のたまった。 それはペンを指してこれはペンですと云うような口調で、つまり至極真面目で見ている方が馬鹿馬鹿しくなるような類いの口調であった。実際真李亜は至極馬鹿馬鹿しい心持ちになってクッションとか放り投げたいような気になったけれど、唸るだけでなんとか堪える。 「とりあえず」と、力一杯なんとか絞り出すといった様子で真李亜。「ソレが人間でないだろう事は納得しておくことにするわ」 それ、というのは勿論魔王のことだ。彼とかソイツとかでないあたり、真李亜の中で魔王の分類は動物をすっ飛ばして無機物に近くなったらしい。 「魔王とかそんな大層なモノにも見えないけれども、とりあえず、そういうことに、しておくわ」 ぶつぎりの、苦渋に満ちた物言いだった。眉間の皺を指で揉み広げる。 「だとして問題は、論点は、結論は、変わらずというかむしろ尚の事、魔王だろうがそうでなかろうが、そんな得体の知れない男に家に居座ってほしく無いし、何よりも、友達の傍をうろちょろと、付きまとって、欲しく、ないってことよ!!」 言い切った。力強く言い切った。朋幸がきょとんと目を瞬き、魔王が不服そうな顔でふてくされて「魔王差別だ」などとぼそぼそ言った。ぼそぼそ言っただけだったので黙殺されたが。 「そもそも!」 ギラリ、視線が朋幸へ向く。当の朋幸はといえば「俺?」と無言で自身を指差した。 「アンタはどうしたいのよ、トモ!」 「俺は真李亜を守るんだよ」 即答だった。 考えるまでもないという様子で朋幸は続ける。 「一番大事なのはソレで、今はだから他はどうでもいいよ」 「俺はどうでもいいのか……」 「うん」 これも即答だった。べったりと魔王がテーブルに沈む。 「まぁ、俺ン家来ていいって言ったし傍に居たいっつーなら好きなだけいればいいと思うしそれは変わってないんだけどな? けどでもほら此処マリアん家だし。マリアの家に男連れ込むのはちょっとなぁ。俺とマリアは別なわけだし」 分かるような分からないような事を言って一人頷く。いや、真李亜も頷いているので二人か。魔王は数秒そのままテーブルに額をくっつけていたが、やがて緩慢な動作で姿勢を正すと、さらに三秒物言いたげに沈黙してから膝を抱えるとそこへ顔を埋めて、 「でも俺朋幸の傍にいるもん……」 と、不明瞭にぐちぐちと呟いた。まるっきり駄々っ子である。真李亜が顔を引き攣らせてドン引いた。あぁ、と朋幸が思い出したような声を出す。 「そういえば魔王まだ産まれて一週間経ってないんだよな」 「え、そうなの」 「そりゃあ我が儘ぐらい、言うよなぁ」 困ったなぁと、傍で見ても大して困っているようには見えないけれど朋幸にしては心底困窮した顔で宙を仰ぎ――はたと気づく。 すっかり失念していたが…… 「又吉さんは?」 固有名詞+疑問系の言葉は前後の繋がりも脈絡も無く余程唐突に聞こえただろう。二人は数瞬話題の転換についてゆけずに眼を瞬き、それからまずそれが人名である事をひとまず理解した真李亜がこの上更に厄介者が増えるのかよという顔をして、遅れた魔王は窓の方を指差し「外にいる」と端的な答えを返した。 「またきちって誰よ」 「猫だよ。にゃんこ。猫又で黒猫ですげー美人でかっけぇの」 「あぁ、もしかして同窓会の時に首に巻いてたアレ」 「そうアレ。外にいるのか。今度はちゃんと連れて来たんだな」 「怒られたく無いからな」 至極真面目に返答。真李亜が物言いたげに胡乱な表情を浮かべたが、結局諦めたように首を振った。大方、それが魔王の台詞か。とか、そんなようなところだろう。それはきっと、言うだけ酸素の無駄というものだ。 「美人といえば」またも唐突に朋幸が声を上げる。「すっげー美人と友達になったんだ今朝。金髪碧眼で、すげーの、美人なの。この上に住んでるんだってさ」 「上……? 上は空き部屋だったと思ったけど……」 「最近越してきたんだって。人形つくってんだって」 「ふぅん……って、ちょっと、話がずれてるわよ。今はこの、ええと」 「魔王だ」 「……名前とか無いわけ。威張って言われても、呼ぶのにすっごく抵抗あるんだけど」 「……魔王は魔王だ」 「魔王は魔王だぞマリア」 「あー、えー、じゃあいいわ、マオ。マオって呼ぶわね。マオの、処遇について話してるんでしょうが」 「そういえばそうだった」 「忘れないでお願いだから。なぁなぁのうちに居座りそうだから忘れないで」 どうやら相当魔王が居座るのは嫌ならしい。 「マリアが嫌なら仕方がないな。諦めろ魔王」 「イヤだ。俺は朋幸の傍にいるんだ。諦めない」 「魔王諦めないらしいぞマリア」 「だから私は嫌だって、ってあぁもう! 堂々巡りじゃないの!」 キィーッとヒステリックに髪を掻き乱す真李亜に、困ったなぁと朋幸がお茶をすする。魔王はと云えば梃子でも動かないぞという意思表示か、ローテーブルの影に隠れるようにして蹲りつつ怒る真李亜を怖怖と伺っていた。当然まったく隠れられてなどいない訳だが。 唐突に、膨らんだ風船がしぼむような勢いで真李亜がばったりとテーブルに突っ伏した。肺の中身を全て吐き出すような溜息が出る。 「わかった、わかったわよ。私が妥協すればいいんでしょう、もう……。とりあえず、前提として、朋幸はコレが」魔王の方を視線で指し「つきまとうのは、嫌じゃないのね」 「うん。別に」 「そう……だったら、まぁ、私が何を言ったところで野暮よね……いいわ、それじゃあ、朋幸の傍にいることに関しては、私は口出ししないわ」 日が差すように表情を明るくした魔王へ「た・だ・しっ」手のひらでテーブルを叩いて真李亜は上体を跳ね上げた。細く整えられた眉でキリリと過剰に眼力を増して魔王を睨みつける。 「朋幸が嫌がる事は一切しない事。あと私の家には私の許可無く上がらない事。それから――」 間を溜めて、身を乗り出して、言う。 「魔王だっていうのなら、変な力があるのなら、朋幸を守ってちょうだい。この子、絶ぇっっ対に、無茶するに決まってるんだから」 その条件に、当然だといわんばかりに力強く魔王は頷いて快諾し、かくしてここにマリマオ不可侵条約が締結されたのであった。 --------------- Buck / Top / Next |