まず目についたのはカウンターだった。かなり高く設定された狭い受付が扉をくぐって目の前にあり、曇りガラスを通して差し込む日差しだけが弱々しく照らす室内は、まだこの歯科病院が機能していた頃の名残を随分と残していた。もしかしたら、潰れたのはごく最近のことなのかもしれない。などと考えつつ本棚も椅子も取っ払われた待合室を素通りして、奥へと続く扉を開ける。元は診察室だったろう奥の部屋は、思いの外に広かった。
 そして暗い。
 対面の壁に一枚、四角く切り取ったような小さい曇りガラスを嵌め殺しにした窓があるだけで他に光源のない室内は待合室よりも一層濃厚な闇が凝っていた。

 停滞している。
 淀んでいる。

 密閉空間で埃と黴と沈黙とを蓄え醸された空気が開放を求めて押し寄せて、朋幸の肌や髪や鼻孔を撫で回しながら背後へと抜けていった。ぞわぞわと首裏が粟立つ。不愉快で、心細くて、逃げ出したいような気持ちが背筋を這い登ってきた。

 端的に言うならば、不吉な予感のする場所だった。
 病院として機能していた頃には衝立で区切られ、何台も診療台が並んでいたのだろう広い空間には今や何もなく、床はまだ剥がされていないようだけれど、それが余計に寒々しい、うらびれた雰囲気を演出しているように見える。もっとも見えるのは光の届く僅かな範囲だけなのだけれども。

 室内は暗く、端が見えない。
 部屋の果てが把握できない。

 それだけでなんだかこの部屋が敷地に反して広大な空間のような気がしてしまう。
 対面の曇りガラスは、最初に見た時からあんなに遠く離れた位置にあっただろうか。

「(なんか……頭がくらくらする……)」

 朋幸は最初、それが淀んだ空気のせいだと思って口元を抑えた。けれど慎重に室内へ踏み込んで、漸く暗闇に眼が馴染んで、
 馴染んだ眼を瞬いた。

「はぁ?!」

 素っ頓狂な声を上げて端的に驚きを表す。驚愕冷めやらぬままにくるくると見回した室内は、何度見ても、どれほど見ても、物凄く広かった。
 広大だった。
 左右の壁が見えないし、対面にあった窓などはもう豆粒よりも小さくなってしまっている。足元を見下ろせば、いつの間にか白いタイル張りだった筈の床は黒と赤の菱形が敷き詰められた柄に変貌していた。踵で踏みつければ大理石の床みたいな質感が返ってくる。
 明らかな異常現象だった。

「な、なんだよこれ、おいこれどういうことだ?」
「魔法でしょうよ」

 答えたのは又吉だった。魔王の肩に乗ったまま、ひげをふよふよ動かしつつ室内を見渡している。そういえば、いつの間にか室内が明るくなっている。光源なんて相変わらず見当たらないのに。対面の壁にあった窓さえもう見えないのに。
 魔王と又吉の背後にあった壁と扉すらも――消え失せてしまっている。
 朋幸は飲んだ息を吐き出せもせず、慌ててもう一度室内をぐるりと見回した。
 赤と黒の床と天井、それだけしか無い。壁がない。果てしない。
 遠く遥か先は闇に埋もれて何も見えない。

「これが――魔法? エドガーの、魔法?」
「予め室内に陣を施していたのでしょう。想像力には限界がありやすからね。魔女はこうして大掛かりな魔法を使用する場合には、陣を刻むことで現実の方を調整するんでさァ」
「どういう意味だ?」
「陣には無限通りの種類がありやしてね、それぞれに予め情報が込められている。だから対応する陣を刻んでしまえば、想像なんぞしなくとも意識するだけで魔法は発動する」
「……プログラミング言語みたいなもんか」

 コンピュータへ一連の動作の指示を記述するように、世界へ一連の動作をするよう指示を記述しているわけだ。

「ハイテクじゃねぇか。便利なもんがあるんだな」
「アナログですよ。なんせ陣を刻む作業は殆ど手作業だ。時間も掛かれば手間も掛かる。まぁ便利は否定しやせんがね。弱っちぃ人間様はこういう小細工でいつだってあっしら化物に対抗してきたンだから、その効力は莫迦にはできやせんよ。だからこうして、予め陣を刻んだこの場所へ逃げ込んだんでしょう」

 ――だから此処はあの男の手のひらの上だと心得なせぇ。
 そんな又吉の警告を待ってでもいたように遠く前方の床が、揺れた。湖面に雫が落ちたように朋幸らの足元まで波紋が広がる。

 その波紋の中央からせり出てくるものがあった。

 月桂樹の冠を嵌めた頭がまず見えて、真っ白く化粧の施された顔が続く。閉じられた唇は赤く、鮮血を塗ったようだ。細い首を囲む真っ黒な薔薇の首輪が見えて、その下に続くのは百合を伏せたようなデザインの、純黒のドレスに包まれた靭やかな肢体だった。雄しべ雌しべの代わりに、真っ白いタイツに真っ黒なハイヒールを履いた脚がスカートの裾から覗いている。
 玉座を模された豪奢な椅子に座っていたその女性は、月代真李亜だった。

「マリアッ!!!」

 叫んだ朋幸が駆け寄る。その肩を強く揺するけれど伏せられた瞼は上がらない。その両腕が肘掛けへと頑強に固定されているのを見て取って朋幸は苦く歯を食いしばった。外側にだけ長く鋭い棘のあるその茨も、闇を固めた黒薔薇も、魔法で創られた物なのだろう。
 朋幸は、躊躇なくその茨を掴んで爪を立て、勢い任せに引きちぎった。床に投げ捨てれば一緒にボタボタと赤が散る。

「朋幸!? 待て、やめろ!」
「うるせぇ邪魔すんな!」
「手が!!」
「知るか!!」
「朋幸ッ!!」

 花を握りつぶし毟り取る。けれど見る間に茨からは蕾がまほろび出てはゆるゆると花弁を開くものだからキリがない。引き千切った茨だってあっという間に補強される。それでも伸ばした朋幸の手を、魔王が乱暴に掴んで引き離した。

「離せ! マリアが!」
「落ち着け、朋幸、魔法なんだからそんな事をしても意味なんて無い」
「じゃあどうしろってんだ、俺は魔法なんか使えねぇんだから物理でいくしかねぇだろう!」
「お前が使えなくても俺が使えるだろう!?」

 ぴたり、と、魔王の怒声にもがく動きが止まる。手首にまで伝う血液を見て、魔王は痛ましげに顔を歪めた。

「……頼むから、無茶をしないでくれ」
「それは無理だ」

 懇願を、しかし朋幸は逡巡すら無く跳ね除けた。
 まるで当たり前みたいに拒絶した。

「無茶をしない俺なんて俺じゃない。マリアがこんな目に遭っていて、平然としていられるならそれは俺じゃねぇよ」

 言い切る言葉の何気なさに、魔王は、何か覆しようのない強固なものを垣間見た気がしてゾッとした。
 危うい、なんて表現じゃ足りない。危な過ぎる。まるでブレーキの無い車であえてアクセルを踏み抜き続けているような、
 どうして気づかなかったのだろうかと魔王は心底後悔した。思い返せば朋幸は、魔女に殺されかかった瞬間にさえ助けを求めなかったではないか。再会した時、跡を付けていた魔王をストーカー犯だと勘違いした上で、迎え撃とうとしたではないか。誘拐犯である魔王相手に、平然どころか傲然と話しかけてきたではないか。
 朋幸に危機意識が無い事なんて散々目の当たりにしていた筈なのに、こんな危険な場所へ朋幸を連れてきてしまったことを魔王はどうしようもなく後悔した。

「朋幸、お前は外にいろ」

 硬い声音の命令に、朋幸は不可解そうに眉を顰めた。

「はぁ? お前何言ってんの」
「マリアなら今助けるから、連れてすぐに出るんだ。だから」

 無茶なんてしないでくれ。繰り返しそうになって飲み込んだ。どうせ、きっと何度でも否定される。というか、既に何度も否定されている。魔王の頼みも訴えも、朋幸は聞いてくれているようで全然聞いてくれていないのだから。
 泣きそうな顔をする魔王を見て、朋幸は不思議そうに首を傾げた。

「まぁ、とりあえずマリア助けてくれるんならありがてぇけど」

 言いつつ退いた朋幸が立っていた場所へ入れ替わり、眠る真李亜を見下ろして、魔王は

「で、どうすればいいんだ又吉」

 肩の猫又へ丸投げした。
 又吉はやれやれやっぱりそう来やしたかとでも言うように無い肩を竦めて答える。

「昨夜にも申しやしたでしょう、魔王様が意志を持って命じたならば、魔力は必ず応じやす」
「そうか。わかった」

 頷いて、魔王は真李亜の眼前へと手を翳した。それ自体には特に意味のない、ただそうした方がイメージしやすいというそれだけの行動だったのだけれど、
 その手に茨が絡みついた。

「魔王!?」
「この、猪口才な……!」

 古風な文句を口にして肩から飛び降りた又吉の尾がひと揺れでずらりと十に分かれた。威嚇で身体を膨らませ、
 しかし、その足が赤に沈む。

「にゃ!?」
「又吉さん!」

 咄嗟に伸ばした手が弾かれる。地面に湧いた真っ赤な液体が生き物のように蠢き朋幸の手を叩いたのだ。まるでRPGの定番、スライムみたいな……と、表するには少々水っぽすぎるが。
 スライムもどきは朋幸が怯んだ一瞬の間に触手を何本も伸ばして又吉の全身を拘束し床の中へと引きずり込んで、消えてしまった。

「ま、魔王、又吉さんが」

 消えちまった。と続ける筈だった言葉は転じた光景を見ては飲み込まざるをえなかった。
 茨が、幾重にも折り重なってギチギチと軋みながら巨大な楕円を型取っている。
 繭みたいだ。
 魔王が見当たらない。
 ――閉じ込められているのか。
 理解した瞬間に茨の繭は一瞬で床へと引きずり込まれてしまった。
 残された朋幸は、あまりの早業に事態を飲み込むことが出来ず、ただ呆然と立ち尽くす他に無い。
 ――呆ける朋幸の背後で、コツン、と靴音がした。

「……どうにか、成功したようですね」

 平坦な声。振り返った先のダークグレイのトレンチコートも、頭頂に乗ったオペラハットも、この二週間で既に見慣れたものだった。ただ一点見慣れぬものがある。錫杖のような、金属製の長い杖。

「……仮面があれば完璧だったのにな」

 脈絡も無く、朋幸が呟いた言葉に首を傾げる。ハニーブロンドの長髪がさらりと流れた。

「…………何の話ですか?」
「オペラ座の怪人だよ。なんかそれっぽいなってずっと思ってたんだ」
「成る程……慧眼デスね。確かに私は、地下世界に住み着く醜悪な怪人そのものの有様だ。クリスティアーヌへの恋情を募らせ誘拐した、エリックと同じ……。そうなると、トモユキ、貴女はさしずめラウル子爵でショウカ」
「そこまで詳しく内容把握してねぇんだ。あれって結局最後はどうなんの?」
「……さて、どうでしたかね。忘れてしまいマシたよ」

 ふぅん、と相槌を打って、朋幸は

「俺はお前を見損なったよ、エドガー」

 唐突に真っ直ぐそう切り込んだ。
 エドガーは笑おうとしたようだったが、失敗してなんだか曖昧な顔になった。

「クライマックスを忘れたから、では、ないんでしょうね」
「惚れた女をこんなふうに扱う最低ヤローだとは思わなかった」

 人を見る目はあるつもりだったんだけどな、と胸の前で拳を打ち合わせる。

「とんだ見込み違いだった。俺は悲しいよエドガー。ものすごく悲しい。正直、泣いちゃいそうだ」
「そうですか。私は別になんとも思ってイマセンよ。最初から貴女を騙すつもりで接触しマシタからね。……他の魔女の登場も、魔王の出現も、まさかでしたが、何よりも驚いたのは貴女のその無警戒さですよ、トモユキ。陽気なイタリアーノだってもっと警戒心を持っていますよ? あれで騙した事を責められても、だったらもっと警戒しろとしか言いようがアリマセン」
「別に俺を騙した事とかはどうでもいいんだよ。隠し事だって別に構わない。お前がストーカーだったことも、そりゃあショックだったけど、でもどうだっていいんだ」

 どうだっていいんだよと、もう一度繰り返して、朋幸は大きく息を吸い込み――

「俺はただ! テメェが! マリアを! お人形さんみたいに扱ってんのが、気に食わねぇんだよ!!!」

 ――咆えた。
 咆えると同時に駈け出して一息で距離がゼロになる。振るった拳はけれど大きく空振った。視界のどこにもエドガーの姿はない。

「お人形さん、ですか。言い得て妙ですね」

 手袋で包まれた手が髪を梳く。振り返った朋幸は、真李亜の隣に立つエドガーの姿を見留めると、瞬間脳味噌を沸騰させた。

「マリアに触ってんじゃねぇ!」

 再び距離を詰める。けれどやはりまたエドガーは忽然と消えてしまう。獣のように唸りながら周囲を見回す朋幸の、遠く前方で魔法使いはつまらなさそうに眼を伏せた。
 どこまでも続く部屋の果ての闇を背負って魔女は言う。

「貴女では私を止められまセンよ、トモユキ。私は魔女なのデスから」
「知らねぇよ。知ったこっちゃねぇよ、そんなこと。俺はテメェをぶん殴る。そんでマリアを連れて帰る」
「魔法も使えないただの人間が、魔女に勝つことなど不可能デスよ」
「確かに俺は魔法が使えねぇよ。だけど、それがどうした」

 朋幸は、にやりと口の端を釣り上げて、傲然とふんぞり返ってのたまった。

「魔法なんざなくっても、殴る拳があれば十分だ!」
「…………貴女という人は……」

 エドガーの顔が軋む。けれどその歪んだ表情の意味を朋幸が読む前に、エドガーは一呼吸で繕い強く朋幸を見据えると、杖で鋭く地面を突いた。
 こぉん、と奇妙に音が反響する。

「――そこまで言うのでしたら、御相手しましょう」

 地面のそこかしこに穴が開く。否――穴のような、それは真っ黒い液体だ。タールのような液体が地面から滲みでて円を描く。

「そして貴女も、己の無力さを思い知ればいい!」

 エドガーの怒声に呼応して、ふゆり、表面を震わせた染みを突き破り漆黒の獣が宙を跳ぶ。
 一体目が朋幸の身体を軽々と後方へ吹き飛ばし、二体目がそこへ覆いかぶさり、三体目、四体目が後へと続く。足掻く朋幸の腕が、脚が、あっという間に蠢く影に飲み込まれた。
 あっけなく、あっさりと、赤子の手でもひねるが如く、朋幸は無力化されてしまった。
 魔女でもない朋幸にはあの獣達を押しのける力など無いだろう。
 そう判じたエドガーは溜息のようなものをこぼすと、最早見ていたところで仕方がないと見切りをつけて背を向けた。


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Buck / Top / Next