――なに勝った気になってんだよ、テメェ――

「!?」
 息を呑む。

 ――あぁ、聞こえたか。魔法ってのは本当に便利だな。声まで創れるのか――
 ――なぁ、おい、お前、エドガー。テメェ何勝った気になってんだよ、あぁ?――
「jemand da!?」

 周囲を見回しながら堪らず誰何するけれど、室内にはエドガーと、真李亜と、すっかり影達に押し込められて腕の一本すら見えなくなった朋幸しか存在しない。魔王かとも思ったが、けれど声はまったく聞き覚えのないものだった。嗜虐で満ちた若い男の声音。それが部屋全体を震わせるようにして響いてくる。

 ――お前さぁエドガー、この程度で全部終わりました、みたいな顔しやがって、なぁ――
 ――フザけてんじゃねぇぞ、あぁ?――
 ――あんま俺の嫁さん舐めてっとさぁ――

 ふぅ、と溜息

「殺すぞ」
「ひ!?」

 飛び退く。けれどやはり姿は無い。確かに耳元で肉声がしたのに、耳朶にかかる吐息すら感じたのに、誰もいない。どこにもいない。
 この空間の支配者であるエドガーに、感知できない存在が潜んでいる。
 それは本来ありえない事だった。エドガーの魔法と術式によって創られたこの空間において、エドガーの支配権は絶対の筈なのに、第三者の侵入に気が付かなかった上に、こうして声を訊いてもなお、存在の痕跡すら捕捉できないでいるだなんて、ある筈の無い異常事態だった。
 声が言う。

 ――ほら、第二ラウンドの始まりだ――

 かぁあん、と甲高い音がした。
 振り返ったエドガーは網膜を焼かれて腕を翳す。その向こうで膨れ上がった光が
 爆発した。

「ぇえええどがあああああ!!!」

 無音の爆発に音を乗せるかの如く、咆えた朋幸の怒声が迸る。はじけ飛んだ獣達は影を剥奪され木細工の人形の姿でかんからと床へ転がった。
 光が翻る。
 朋幸の衣服へ染み込んだように、黄昏色をした光が溢れて輝いている。それだけではない。帯状になった光が羽衣のように朋幸へまとわりつき、その背でゆったりと翻っている様は神々しくすらあった。両の拳までもが光り輝き、真っ黒だった双眸が茜色に燃えている。

「えどがぁあ!!」
「っ、Angriff!」

 号令と振るわれた杖に応じて床から天井から真っ黒い影が襲う。獣型であったり人型であったりするそれらを、しかし朋幸は駆けながら殴り飛ばした。その拳が触れた瞬間に羽衣が影を縛り上げ、ただの人形へと変えてしまう。見る間に距離が詰められる。

「Stoppen!」

 止まれと魔力を込めて命じた言葉は、しかし一歩分だけ朋幸の脚を鈍らせる事しか出来ない。直接的な魔法は無意味だと見て取って、エドガーは杖で床を突いた。

「Mauer!」

 地響きを震わせ床から石造りの壁がせり出てくる。けれどその壁は出て早々に朋幸の拳で打ち砕かれた。粉砕された瓦礫に混ざってきらきらと黄金の粉が宙を舞う。
 光を発散させたその拳で朋幸はエドガーを、ぶん殴った。
 容赦なく顔面を狙った一撃が退いた頬を掠る。よろけつつも体勢を整えようとしたエドガーに、朋幸が抱きついてきた。抱きついたというか、正確に記すならば、回避された場合の事なんて考えもせずに勢いをつけすぎて、朋幸はそのまま本来踏ん張るはずのところで更に二歩を踏み込みたたらを踏んでエドガーにぶつかって縺れて転倒したのだ。

 背中から倒れ込んだエドガーなどはろくに受け身もとれず強かに後頭部を打ち付け無言でむもんどり打つ。対して間にクッションを挟んだ朋幸は肘と膝を打って苦悶したが、痛みを振り切り起き上がるとそのままエドガーの上で馬乗りになり、胸ぐらを掴みあげた。

「どうだ! 魔法なんか使えなくっても拳で勝ったぞ!」
「…………」

 いや、
 魔法は使っただろう。
 とか、エドガーは内心で思ったけれど口には出さなかった。
 物理的に首を締め上げられていて言葉を発せなかったとも言う。
 しかも実際には殴れていない。
 だというのに朋幸は勝ち誇ったようなすっきりした顔をしている。
 これでもう何もかもが片付いたみたいなどや顔だった。
 おそらく、エドガーからすれば考えたくもない可能性ではあったが、真李亜を助ける為の手段であったエドガーの打倒が朋幸の中で途中から目的に摩り替わってしまったようである。その予想を裏付けるように朋幸は、

「あれ、俺なんでエドガーとケンカしてたんだっけ」

 なんて阿呆としか言いようのない事を呟いた。

「あ、そうだ、マリアだ。マリアだよ」

 さすがに言ってすぐ思い出したようだが。
 朋幸は眉を吊り上げエドガーの胸ぐらを締め上げる手に重ねて力を込める。

「テメェ、エドガー、よくもマリアにあんな可愛い服着せて飾りやがって、なんだよお前、それで満足なのかよ。お前はマリアを、あんな、お人形さんみたいに扱いたかっただけなのかよ。綺麗に着飾って展示して愛でたかっただけなのかよ。なんだよそれフザけんなよ! テメェ、それでマリアを愛してるだなんてぬかすんじゃねぇだろうな、あぁ!?」
「……えぇ、愛しています」
「ふっざっけんな!!」

 眼前で火花が散り鈍い衝撃が頭蓋に響く。罵声と共に頭突きを繰り出した朋幸は反動で仰け反った上体をバネ仕掛けのように起こすとエドガーを掴み寄せた。

「愛してる? 何が愛してるだ! だったらどうしてあんな扱いが出来るんだよ! 頭イカれてんのかテメェ! 俺の知ってるエドガーは、この二週間一緒に過ごしたエドガーは! もっとマトモな男だったぞ!!」
「――アナタに私の何が分かる!!!」

 裏返った叫声が朋幸の憤怒を劈く。その響きの悲痛さに、朋幸は怯んで口を閉ざした。

「アナタのような、自由で、奔放で、誰にでも好かれて、愛される為に生まれてきたみたいな、アナタみたいな幸せな人間に、誰にも愛される事の無い私の気持ちなんてわかるものか!!」

 突き飛ばした腕に朋幸が尻餅をつく。素早く立ち上がったエドガーは両手で杖を握りしめた。

「全て与えられて育ったアナタに、何も与えられずに育った私の気持ちなんて……!」
「……はぁ?」

 低い声がエドガーの主張を凍らせる。

「お前の気持ちなんか解るわけねぇだろう」

 燃える大地を這うような、そんな重低音で朋幸は吐き捨て、斬り付けるような眼差しでエドガーを睨め上げた。

「いきなり何を言い出すかと思ったら、馬鹿かお前は。お前の気持ちなんかわかんねぇよ! エドガーだけじゃない。他人の気持ちなんか、分かるわけねぇだろうが! 俺がサトリに見えるかよ! マントラとか超能力とか会得してるように見えんのかよ、あぁ!?」

 立ち上がる。立ち上がって詰め寄る。

「そう言うテメェは俺の気持ちが解るのかよ! わかるわけねぇだろ! 誰にも誰かの気持ちなんか解らねぇよ。誰にも気持ちを理解してくれる誰かなんていやしねぇよ! そんなのは当たり前の事だろうが!!」

 当たり前すぎて欠伸が出んだよと、朋幸は火を吐くように怒鳴ると大きく踏み込み、後退るエドガーの杖を掴んで引き寄せた。

「気持ちなんて言葉にしたって伝わりきらねぇもんを、どうやって黙ってて解ると思うよ、バカかテメェは! まさか、それでマリアのこともああやって眠らせて飾ってるって言うんじゃねぇだろうな。気持ちなんてどうせ解ってもらえないから、だから拐って飾って、それで満足してんのかテメェ!」

 それがテメェの愛なのかよと、詰問されエドガーは顔を背けた。

「えぇ、そうです」
「嘘つき」
「嘘ではありません」
「だったらなんで!」

 叫ぶ。声が軋み、表情が歪む。

「なんでお前、そんな辛そうなんだよ。泣きそうな顔してんだよ! 好き勝手に望み通りやってる奴が、そんな顔するわけねぇだろうが! それでお前、幸せだってのかふざけんな!」
「仕方が無いでしょう!?」

 叫び声は、当人にも予想外だったらしい。朋幸を突き飛ばした手でハッと口を覆い、しかし決壊してしまった言葉は止められない。
 強く、縋るように杖を握る。

「仕方、無いでしょう。もう、手遅れなのデス。もうずっと、とっくに、手遅れなのデスから」

 ――私はマリアを傷つけた。
 震える声でエドガーは言う。

「彼女を怖がらせて、追い詰めて、そんなつもりじゃなかったのに、だけどマリアは私をストーカーと言って、違うのに、私は、私はただ、彼女を愛してる私の事を知って欲しかっただけだったのに、彼女はそれで傷ついて、怯えて、そんなつもりじゃなかったのに、彼女は私をストーカーと呼んで、マリアは、私が、ストーカーだと気づいてしまって」

 もう手遅れなのデスと繰り返してエドガーは、
 杖を、突いた。
 こぉん、と音が響く。

「待て、エドガー!」
「私は、それでも」

 語る唇が――笑った。

「うれしかった」

 恍惚とジェードグリーンが艶かしく光る。

「マリアが私の事を想ってくれる。私の事ばかりを考えてくれている。それだけで、私は嬉しい」

 例えそれが嫌悪であっても、
 彼女の心に触れられたようで、彼女の心を手に入れられたようで、
 幸福だった。

「――なんて、醜い」

 呟いてエドガーは、けれど微笑っている。泣きながら微笑んでいる。
 こぉん、こぉんと数を増してゆく音波の中で朋幸は立ち尽くしていた。
 美しくて、
 魅入っていた。初めてその姿を見たあの夜のように、呼吸も忘れて惚けていた。
 佇み微笑むエドガーの姿はあんまりにも美しくて、眼が逸らせない。目を逸らそうという思考がそもそも生まれない。立ち姿が網膜に焼きつく。まるで呪いのように。
 朋幸が時を忘れている間に、杖からインクが染み出たように床へ複雑な文様が広がっていく。その模様から風が吹き出し頬を撫でる。

「マリアが隣で笑ってくれると、嬉しいけれど、悲しいのデス。そうして笑いかけるのが私だけにではないと思うと、苦しいのデス。それでも、マリアが笑うと嬉しかったから、隣でそれを見ていたかったから、もうやめようと、彼女を怖がらせるような事は、嫌われるような事はやめようと、そう思ったのに、マリアは気づいてしまったから」

 ――きっともう、私の隣では笑ってくれないだろうから。

「隣にすらいられなくなるならば、憎まれてでも傍にいたい。愛してもらえないのなら、憎悪であっても想ってほしい」

 音が途切れ、ぞわりと世界が震えた。

「私はマリアの心が欲しい」

 そのためには
 ――そのためには

「トモユキ、貴女に憎まれるほど貴女を傷つければ、きっと」

 マリアは、私を憎んでくれる。
 恍惚と告げられた言葉に朋幸は、一度パシリと瞬きをして、それから何故か嬉しそうにはにかんだ。

「なぁ、エドガー。お前は俺にも憎んで欲しいのか?」
「ヤー。そのトウリです」
「それはつまり、俺にもお前を想っていて欲しいっていう解釈で、いいんだな」

 エドガーの背後で何か、真っ黒い巨大なものが首をもたげた。地面からのっそりと、ゆっくりと、這い出してくる。それを視界の端に映しながらも、朋幸の眼差しはエドガーしか視ていない。黒龍の真っ赤な瞳に射抜かれても、朋幸はエドガーだけを見ていた。
 真っ直ぐなのだ、どこまでも。目の前のものしか朋幸は見ていない。目の前にあるものしか朋幸は見ない。
 まるで純真な子供のように。
 エドガーは一呼吸だけ間を置いてから、笑みを深めた。

「……えぇ、そうデス」
「そうか。それがお前の愛か、エドガー」

 嬉しそうに笑いながら朋幸は言う。

「お前は大馬鹿野郎だな。だけど、うん、許すよ」

 パシリと手の平に拳を打ち付け笑って告げる。

「俺はお前が好きだ、エドガー」

 挑むように歯を剥き出しにして笑い、宣言する。

「だから、受け止めてやる。俺は生憎とお前を憎まないけれど、憎む以上に想っているから、だから安心して馬鹿をやれよ。ダチが馬鹿やらかすのを、止めてやるのもダチの役目だからな」

 朋幸の主張を静聴し、エドガーは長く瞼を閉じた。一呼吸を置いてから、笑みを消して眼を開く。
 黒龍はずるずると音を立てながらとぐろを巻いている。
 それに、短く命じた。

「Guten Appetit」

 食らいつく。巨体に似合わぬ俊敏さで、黒龍は朋幸を飲み込んだ――筈だった。
 高く、高く、ガラス細工の砕けるような音が響く。
 幾億もの亀裂が駆け巡り、崩れて砕けて、中空でバラバラになった黒龍は無数の蝶が飛び立つように散り散りに飛び散って消えてゆく。消滅する。
 唖然とその様子を見つめる二人の耳をもう一度破壊音が襲う。
 大きな硝子板を一打で割り砕いたような澄んだ高い崩壊の音。後に幾つも続く、硝子細工が叩きつけられ砕けるような音。何重にも折り重なって、まるで音楽のようだ。
 奏でられる度に景色が崩壊していく。
 がらがらと崩れ剥がれて落ちていく。

「Boah……私の魔法が、私の最高傑作が、こんなに容易く……!」
「――どうにも、話が迷走しているように思うのだけれど、私の気のせいかしら?」

 驚嘆を叫ぶエドガーは、降った苦笑に凍りついた。

「……まぁ、朋幸らしいけれど」

 振り仰いだ先の亀裂から、まず魔王が舞い降りた。又吉を後ろに引き連れて、赤と黒の世界が崩壊する中、殊更ゆっくりと時間をかけて部屋の中央へと降り立つ。
 それから、その腕の中に抱えられていた真李亜が椅子に座る真李亜の隣へと歩み寄った。
 腕を組み、しげしげと座る自分を見下ろしている。

「ふぅん、私って傍から見るとこんな感じなのね。そんなに似てるかしら。自分で見てもよく分からないものね。他人って感じだわ」
「まっ、まま、マリアが二人!?」

 朋幸が指さして叫んだ。

「私は一人よ、バカね」

 呆れたように溜息を吐き出して、今朝着ていた部屋着のままの姿をした方の真李亜は肩を竦める。

「こっちの、アンタ曰くお人形さん扱いされていたこれは、正真正銘、人形よ」

 ――そうでしょう、エドガー?
 問いかけに被さって、部屋を創っていた最後の欠片がかしゃんと砕けた。



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Buck / Top / Next