あれから五年後―――
勇者だった英雄のもとに、山のふもとの貧しい村から使者が来た。
使者は言った。
「私どもの村の近くの山の峠に恐ろしい魔女が住み着き困っています。」
勇者だった英雄は尋ねた。
「魔女はどんな恐ろしいことをするのですか?」
使者は答えた。
「魔女は毎晩森を徘徊し、森に迷い込んだ人間を襲うのです。
魔女は狩人に恐ろしい魔法をかけて、我々から獲物を奪うのです。
魔女はいつも黒いフードを目深にかぶり、雨を呼んで我々から太陽を隠すのです。
どうか恐ろしい魔女を退治してください。」
勇者だった英雄は答えた。
「いいだろう。私がその魔女を退治してやろう」
勇者だった英雄が村に着くと、村人達は全員で彼を迎えた。
勇者だった英雄はさっそく村の狩人に恐ろしい魔女の住む洞穴へと案内させた。
洞穴を行くと明かりが見え、岩陰から覗き見ると黒いフードをかぶった恐ろしい魔女が薬を調合していた。
勇者だった英雄は思った。
恐ろしい魔女のことだから、恐ろしい毒薬を川に流して村を全滅させるのかもしれない。
勇者だった英雄は剣を振り上げ、恐ろしい魔女の背中を切りつけた。
恐ろしい魔女は剣を受けても何も言わず、ゆっくりと勇者だった英雄を振り返った。
恐ろしい魔女は尋ねた。
「あなたは誰?」
勇者だった英雄は尋ねた。
「お前は恐ろしい魔女だろう」
恐ろしい魔女は答えた。
「人はそう呼びます」
勇者だった英雄は答えた。
「私はお前を退治しに来た英雄だ」
恐ろしい魔女は言った。
「でしたらそうすればよいでしょう。私は受け入れましょう」
勇者だった英雄は尋ねた。
「お前は恐ろしい魔女なのだろう、なぜ抵抗しない?」
それから言った。
「死が恐ろしくはないのか?」
恐ろしい魔女は答えた。
「私は心を失くしました。恐ろしいという感情を知りません」
その答えに、勇者だった英雄は驚いた。
勇者だった英雄は言った。
「私は心を失くした魔女を知っています。」
そして尋ねた。
「あなたは私と会ったことがありますか?」
恐ろしい魔女は言った。
「私は優しい勇者にならば会ったことがありますが、恐ろしい魔女を退治しに来た英雄と、過去に会ったことはありません」
勇者だった英雄は驚いて言った。
「私は、いまは英雄と呼ばれていますが過去には勇者でした」
恐ろしい魔女は答えた。
「そうですか」
勇者だった英雄は言った。
「私はあなたの予言どおりに誰もが名を知る英雄になりました。」
恐ろしい魔女は言った。
「そして私を殺しに来た。」
勇者だった英雄は、その責めるわけでもない言葉にたじろいだ。
「あなたは私を責めますか?」
恐ろしい魔女は訊ねた。
「なぜ私があなたを責めなければならないのです?」
勇者だった英雄は困ったように恐ろしい魔女を見つめた。
「私はあなたを殺しに来たのですよ?」
恐ろしい魔女は答えた。
「ええ、そうでしょう。」
その答えに、勇者だった英雄は本当に困ってしまい、洞窟を見渡して岩の机にある、先ほどまで恐ろしい魔女が調合していた薬に目を留めた。
勇者だった英雄は尋ねた。
「それは何ですか?」
恐ろしい魔女は答えた。
「薬です」
勇者だった英雄は尋ねた。
「何の薬ですか?」
恐ろしい魔女は答えた。
「傷薬です」
勇者だった英雄は、それを毒薬だと思っていたので驚いたが、かつて森で出会った魔女である彼女がそんな恐ろしいことをするはずがないことに気がついて自分を恥じた。
「何に使うのですか?」
恐ろしい魔女は答えた。
「傷に塗るのです」
勇者だった英雄は心配になって尋ねた。
「どこか怪我をしているのですか?」
恐ろしい魔女は小さく首を傾げて訊ねた。
「あなたは不思議なことを聞く、先ほどわたしをその剣で切りつけたのはあなたでしょう」
そう言われ、勇者だった英雄は愕然として、自分が持っている剣を見た。
その剣には、固まりかけた、黒ずんだ血がべっとりとついていて、勇者だった英雄は思わず剣を手落とした。
「痛くはないのですか?」
恐ろしい魔女は答えた。
「わたしは感情を失くしました。ですから痛みを知りません。」
勇者だった英雄は尋ねた。
「でしたら、なぜ薬を?」
恐ろしい魔女は答えた。
「血を止めなければ部屋が汚れます。怪我を治さなければ体がうまく動きません。
あなたは折れた腕で戦えますか?」
勇者だった英雄は答えた。
「それはできないでしょう。試したことはありませんが、」
恐ろしい魔女は頷いた。
「そうでしょう。それと同じです」
そして、勇者だった英雄に背を向けて、そのフードをするりと脱いだ。
袖のない粗末な服と、太股の半ばまでしかない粗末な短パンから覗く石膏のように白いその腕や脚をみて、勇者だった英雄は息を飲んだ。
「なんと言うことだ・・・!」
無事な肌のほうが少ないほどに、その華奢な身体には醜い傷跡が刻まれていた。
刃物で切り裂かれたもの、火に焙られた火傷の痕、魔物に食い千切られたものや、酸でもかけられて爛れたような痕まである。打撲や打ち身、擦り傷に至っては、数えることも困難なほどだ。
そして、その背の中ほどに、鮮血を吐き出す新たな傷があり、その傷口からは白い背骨が覗いていた。
その傷の凄惨さに、勇者だった英雄は愕然として、自らのなした所業を恐れるように後ろへよろめいた。
その様子を見て、傷口に無表情で薬を塗っていた恐ろしい魔女は首をかしげた。
「なぜ驚くのです。あなたのしたことでしょう」
当然の事実を事実として語る恐ろしい魔女に、勇者だった英雄は呆然と首を横に振った。
「あ・・・、わたしは・・・」
勇者だった英雄に恐ろしい魔女は言った。
「なぜ後悔するのです。あなたは当然のことをしただけでしょう」
恐ろしい魔女の言葉に、勇者だった英雄は呆然と呟いた。
「とう・・・ぜん・・・?」
恐ろしい魔女は頷いた。
「あなたはわたしを殺しに来たのだから、わたしを傷つけるのは当然のことです」
勇者だった英雄は、今度は激しく首を横に振った。
「ちがう。私はあなたを傷つけたくなどない!」
恐ろしい魔女は静かに言った。
「おかしなことを言うのですね。あなたはわたしを傷つけたではないですか」
事実の掲示に、勇者だった英雄はその身を強張らせた。
それを、まるで日常の風景の一つであるかのように眺めて、恐ろしい魔女は血の止まった傷口に薄汚れた包帯を巻いて再びフードをかぶった。
そして、独り言のように呟いた。
「あなたたち人間は、ほんとうにおかしな生き物ですね。この傷を刻んだのはあなたたち人間なのに、この傷跡を見て魔女だと恐れる。だからフードで傷痕を隠したのに、今度は黒いフードを着ていると言って魔女だと叫ぶ。」
そして、勇者だった英雄を振り返って言った。
「あなたたちの言う人間とはどういうもののことなのか、わたしには解らない。」
それは勇者だった英雄も同じであった。
どういうものが人間なのかと尋ねられても、もはや答えることは不可能だった。
勇者だった英雄は尋ねた。
「あなたは、どうして感情を失ったのですか?」
恐ろしい魔女は答えた。
「さあ、忘れてしまいました。」
それを嘆くことも悲しむこともないただそれだけの言葉に、勇者だった英雄は目を瞠って、それから決意したように強く言った。
「ここを出ましょう」
恐ろしい魔女は首をかしげた。
「なぜ」
勇者だった英雄は、それを尋ねることさえ愚かしいとでも言うように答えた。
「なぜって、ここにいれば、あなたはいずれ殺されてしまう!」
その叫びに、恐ろしい魔女は言った。
「いずれではなく今でしょう。あなたは私を殺しに来たのだから。」
勇者だった英雄は否定に叫んだ。
「ちがう! 私はあなたを殺さない。あなたは、生きて、私と人生をやり直すのです。人間に戻るのです。」
救いの叫びに、しかし、恐ろしい魔女は静かに首を横に振り、静かな声で淡々と告げた。
「あなたが私の首を持ち帰ったのなら、あなたは後の世にまで名を轟かせ、神の一人とさえ数えられるでしょう。
あなたが私と行ったなら、あなたは何も得られません。」
勇者だった英雄は、過去の景色に今を重ねて、訊ねた。
「何も得られないのですか?」
恐ろしい魔女は答えた。
「何も得られないのです」
恐ろしい魔女の、変わらず、ただ映すだけの瞳を勇者だった英雄は真っ直ぐ見つめ返して否定した。
「いいえ、あの時はわかりませんでしたが、あなたとともに行った先にも、私が得るものはあります。」
恐ろしい魔女は訊ねた。
「そんなものがあるのですか」
勇者だった英雄は強く答えた。
「はい。私はあなたを得るのです。」
やがて姿を消した名君の噂は物語となり後の人々に広く知られ、
しかし姿を消した魔女のその後の話は
誰も知りませんでした。
END
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