あれからまた幾年月。
 過ぎた時間は一瞬の記憶となり、これから来る未来と同化して現在に成る。
 そう、あれは始まり。それを知るのは未来。
 物語は始まった。


























「茜!!」
「ふぇう?!」


 背後から鋭く名を呼ばれ、少女は肩をびくりと震わせ振り返る。
 日差しは高く天から降り注がれる熱はじりじりと地と天の間に在る者者を焼き、その熱に少女の肌には大粒の汗が幾つも浮かんでいた。
 少女の名を呼んだ青年は、クーラーの効いた室内と庭との温度差に顔を顰めながら照りつける日差しの中で帽子すら被らず土いじりをする少女を、切れ長の、少し垂れた三白眼でじとりと睨み見下ろしそれを見て溜息を吐き出す。
 そして、振り返ったままの格好でクエスチョンマークを頭上に浮かべる妹に「お前は・・・」と低く唸った。


「帽子を被れと何度言えば理解するんだこの間抜け。それから日差しが強い日は長袖を着ろ肌が焼けるだろうがアホ。」
「あ・・・、アホぉ言うた方がアホやねんよぉ!!?」
「知るか。後で泣くのはお前だろうが。」
「あうう・・・」


 日差しに日焼けするどころか火傷する己の体質を一週間前にも十分嘆いた少女は、唸りながらも兄の忠告に従うべきだと判断し立ち上がろうとして――――――――すっ転んだ。
 何が落ちていた訳でもない。ただ立ち上がるのと歩くのを同時進行しようとして結果両足が絡まり、受身を取るべく突き出した両手は何故か真上に万歳でもするかのような格好で上げられ、最終的に焼けた剥き出しの地面にべちゃりと倒れたのだ。
 それを一部始終見て、腕組みし助ける素振りすら見せなかった兄は最早いつもの事でありながらも「何やってんだお前は」と突っ込みを入れておく。
 

「相変わらずの愚図だな。」
「ううう・・・っ」


 止めの一言を残し、背を向けた兄は手を差し伸べるという選択肢は無いのかと突っ込みたくなるほど転んだ妹を完全に無視して室内へ消えてしまう。
 それを倒れたまま見送った少女は、「兄ぃやんのれーけつかん〜〜っ」と涙目で唸った。地面が熱い。

 じりじりじりじり、真上から降り注ぐ太陽光線は容赦無く地面と少女を照りつける。その上、地面から立ち上る熱気が水分と体力を奪っていくのだが、しかし少女は危機感を抱くでもなく上がっていく己の体温を感じながら地面に耳をつけた。

 思考を止め、ただじっと耳を澄ませば、それまで聞こえていた音がだんだん遠のいて行き、それまで聞こえなかった音が少女の鼓膜を振るわせ始める。
 形容する事の難しい音。唸りの様で囁きの様。
 一つの音に聞こえるそれは数え切れぬ数の音の集まりなのだと少女は知っている。
 これは大地の中に居る何か達の声。





「こら。」
「あいたっ、」





 ぺしん、と軽く頭を叩かれ呻いた瞬間その音は消え、また蝉の鳴き声や風鈴の音や、車の走る音や子供の笑い声が耳に戻る。
 叩かれた頭を抱えながら、起き上がった少女はむうと膨れた。


「兄ぃやん痛い」
「ったり前だ。つぅかお前仮にもオンナノコが地面に顔擦りつけて寝るな。」
「寝てたんちゃうもん、声聞いとっただけやもん。それに兄ぃやん男女差別やで」
「意識の問題を言ってるんだ俺は。16にもなって鼻の頭擦り剥いてほっぺた低音火傷で赤く腫れさせる奴があるかアホ。」
「ああぁっ!! またアホ言うたぁ!!」
「アホアホアホアホアホ茜。」
「に、う、アホアホ言う兄ぃやんがアホ兄ぃやぁ!!」
「うら、帽子被ってろ。」
「あぶ」


 ジタバタと暴れる妹の顔に彼女の部屋から持って来た麦藁帽子を被せて黙らせ、その場に座ると青年はジーンズのポケットから煙草を取り出し、指の間に挟んでいた一本のマッチを家の外壁で擦って咥えた煙草に火を点け、軽く振っていらなくなった火を消しながら反対の指で煙草を抓み、吸った紫煙を吐き出した。
 漸くちゃんと起き上がった少女は、地面に何故か正座し帽子を被りなおしながらそれを見て顔を顰める。


「煙草はあかんて、私いっつも言うてんのにまた吸う・・・」
「一昨年に空気洗浄器買ってやっただろうが。」
「天井さんもまっ黄っきやで? しくしく泣いてんよ?」
「俺の家だ、俺がどうしようと俺の勝手だろ。嫌なら出て行け居候のタダ飯食らい。」
「こ、今年からバイトできるもん!」
「止めとけ、お前なんか雇ったらその店が潰れる。」
「む〜うう〜っ」


 じたばたじたばた
 暴れて怒りを表す妹に、青年は無情にも煙草の煙を吹きかけた。
 けほけほと咽るのをにやにやと笑い――――ふいに、何かに惹かれるように空を仰ぐ。
 「いやぁもー」とごしごし顔を擦っていた少女は静かに双眸を細め、表情を無くし黙る兄に気付きキョトンと目を瞬いた。


「兄ぃ・・・やん?」
「――――・・・・・・声、聞いてたんだって?」
「ほえ?」


 唐突に、前後を無視して呟かれた問いかけに少女は首を傾げ――――――問いを反芻し、ようやく「うん」と頷く。


「十年前からずっと思ってたんだが、お前そろそろ病院行くか?
「ひ、酷いぃ、兄ぃやん酷いぃ!ホンマに聞こえるて言うてんのに、なんで信じてくれへんのぉ!?」
「信じるも何も幻聴だろうが。」
「幻聴ちやう〜っ!!」


 じたばたじたばたずべっ
 暴れすぎた少女がバランスを崩してひっくり返る。
 それを眺めつつも助けようとはせず、よっこいせと立ち上がった青年はサンダルに足をひっかけて歩き出した。
 背後から聞こえる「うにゅ〜〜う〜〜っ」というなんとも間の抜けた悲鳴を無視して庭の隅にある納屋へ歩いていき、ホースを掴み出して踵を返す。
 戻ったそこでは、さっきとは違う角度に倒れた少女が同じように地面に耳をつけ、帽子の下で静かに瞼を閉じていた。

 ざわりと、胸が騒ぐ。
 それを意識して押し込んで、青年は少女の寝転んでいる場所より手前にある蛇口にホースの端を捻子嵌めて、反対の端を掴むと軽く親指で口を押しつつ素早く蛇口を捻る。
 一瞬遅れて、ホースの口から噴出した水が少女に襲い掛かった。


「にゅ!? うにゃにぃ!!!?」


 俗に言うにゃににゅにぇにょ語で驚愕の悲鳴を上げた少女をしばらく水攻めにして、のた打ち回るのを見て満足した青年は親指を緩め、蛇口を少し閉めてしばし待つ。
 ややあって、混乱から回復したらしい少女がガバリと起き上がり「兄ぃやんっ!!」と怒鳴るが無視してホースを投げ渡す。
 そうすれば水を吐き出すホースを受け取ろうと少女が慌てて、しっかり受け止めたのを確認してから青年はサンダルを脱ぎ室内に足を踏み入れた。


「仕事だ居候。俺が買い物行ってる間に水撒きしてろ。」
「ふえ、あ、あいあいさ〜?」


 なんで疑問系だよ。
 小さく笑った時、背後から「あの、兄ぃやん・・・?」と控えめに自分を呼ぶ声がして青年は「あん?」と振り返る。
 泥塗れになった少女は、眉をハの字に垂らして呟いた。


「ほんまに・・・ほんまに声、聞こえるねんよ・・・? 前より、ずっと、おっきぃ声・・・。だんだん、近ぉなってんねん。」
「・・・・・・・・・水撒き、終わったらちゃんと片付けとけよ。」
「・・・・・・あいあいさぁ」


 しゅん、と、項垂れた少女に今度こそ背を向けガラス戸を閉めた青年は財布を掴んで玄関へ向かう。
 とんとんと靴を履き、玄関の扉を開け、外にでて鍵を閉めて遠目に水を撒く妹を見つめ紫煙を吐き出し―――――
 ――――独り、高い空を仰ぎ見て呟いた。


「そろそろ――――・・・限界
(リミット)か・・・。」
















*** 
 Top Next