「―――」
家の扉を潜り鍵を閉め、俺は軽く息を吐き出した。
だが肩の力を抜く事はせず、玄関に、家の中に何か変わった事が無いかを視線を巡らし探る。
さっきの炎が罠ならば――――どこに、どんな布石が敷いてあるとも知れやしない。一応気配を探りつつ家とは反対の方角から適当に人込みや裏道を歩き回り大回りをして帰ってきたが所詮俺は訓練を受けたわけでもない一般市民だ。そんなものは素人の浅知恵程度の対処でしかないし、そもそも気配を読んだり、消したりなんて出来るはずも無い。
今まで殺し合った連中も全員自分と似たり寄ったりだが―――何らかの訓練を受けた人間が魔王と契約していないという保障が無いだけに、慎重に構えてしまう。
ここは日本で、生温いほど平和な国だ。現実的に考えてそんな人間がそもそもこの国にいる筈は無いし、万一存在したとしても―――――出会う確立はどれほど低い?
ほぼ無意識に写真立ての位置がずれていないかまで確認していた俺は、胸中で自問し、苦笑した。
「―――過剰になり過ぎている、な。」
《そのぐらいで丁度いいんだよばぁか。普通の人間だったお前じゃ警戒して予防線張って相手の裏掻いて小細工するしか能無ェだろーが。》
自嘲に、地面から1Mほど浮いたルシフェルがケタケタと笑い言葉を被せる。
まったくもってその通りだが、もう少し言い方は無いのかと睨みつけた先で魔王は双眸を眇め、どろりと甘い声で言い切った
《精精神経すり減らして生き延びろよ―――相・棒。》
「――――警戒しすぎて発狂したら元も子もないだろう。」
《ケケケッ、手前ェがんな柔な玉かよ?もしそうなら最初に人間を殺した時点で発狂するサ》
―――手前ェは最初から狂ってんだよ。
くつくつと喉の奥で哂い、両手で俺の顔を掴み上向ける。
雪に埋まっていた大理石のように冷たい手に顔を顰めれば、指が唇をなぞり――――吐息が触れるほど近くでにたりと笑った。
《今更狂えやしねェよ。残念だったなァ?狂えれば楽になれただろうに。》
「ッ、黙れ!!」
怒鳴り、突き飛ばした反動で数歩距離を取った俺はその嫌味なほど整った顔を睨む。
忌々しい。にたにたと笑うその横っ面を全力で殴り飛ばせれたらどんなにいいか。
――――勝手に、人の弱音を見透かしやがって。
《俺様から逃げられやしねェぜ?逃がしやしねェよ―――死ぬまで、な。》
「・・・黙れと・・・言っている・・・っ!!」
――――魔王と契約した人間は、寿命が正規の数倍にまで延長する。しかも肉体が衰える直前に老化すら止まるらしい。
それだけでも魔王と契約した意義はあると考える人間も中にはいるんだろうが・・・・・・・・・俺には玩ばれているようにしか思えない。それは人間としての死を捨て、魔王の人形にされているのと同義語なのだから。
自分の意思で死ぬことを封じて、ルシフェルと契約させて――それほど長い時を一人で生きろというのか、あの人は。
フラッシュバックする幸福だった日常。戻れるものなら戻りたい。他人の命を奪う前、姉が死ぬ以前。父が死ぬ前の、あの日々に。
それが叶わない事ぐらい解っている。だからこそ、前方に続く一筋の光すらない道から目を逸らし顔を背け、足下に波打つ死という終わりに身を投げてしまいたいのに――――・・・・・・それは、許されない。
なんで、どうしてと繰り返したって無意味だと分かっている。
それでも叫びたい。問い詰めたい。
何故姉さんは契約を俺に移行した?
何故俺は生きようとする?
何故――――
「何故―――――――俺を、生かそうとするんだ・・・・・・姉さん――ッ」
堪えきれず擦れた声で叫んで――――片手で顔を覆い、前髪を強く握り締めた。
まるで呪いのように、あなたは俺に生きろと言う。
もし、あなたが俺のことを慮ってくれたのなら、もし、あなたが俺を愛してくれていたのなら、
――――――救いを、残して欲しかった。
こんな、「生きろ」と責める絶望ではなくて。
「――くそっ」
《知りたいのか?》
常とは違う、揶揄するのでも嘲弄するのでもない声音に、そして何よりその台詞に思考が止まる。
ゆるゆると、顔を上げた俺は静かに見下ろす魔王の瞳を見つめた。
「・・・今、なんて・・・・・・言った?」
《知りたいのか? 光華がテメェを生かした―――生かす理由を。死の直前に、何を思ったのかを。》
「わかる・・・のか・・・?お前は知っているのか・・・!?」
あの人が、何を考えていたのかを。
身を乗り出し叫ぶ俺に、ルシフェルは双眸を細め哂った。
《知らねェよ、あの女の考える事なんざ理解できるか。 だがな、それを知る方法なら知ってるぜ。》
「教えろッ・・・・・・いや、教えてくれ、どうすればいい、どうすれば」
《えらく必死じゃねぇか。知ってどうなる?死人は死人だ。既に死んだ者の考えなどに価値があるか?》
「ある。」
《ほう?》
即答した俺を面白そうに片眉を跳ね上げ見下ろす魔王から視線を逸らし、自らの掌を見つめた俺はその手を心臓の上へ押し当てる。
掌に、確かに伝わるこの鼓動が、ただ忌々しい。
抉り出せるものなら、
今直ぐそうするのに。
「・・・あの人が、俺を生かす理由がわかれば・・・・・・今の状態からは、開放される。何故だと悩む事は無くなるだろう。それに、もしその理由が納得できないものなら・・・」
《死ぬことを選択できる、か? この俺様がそれを許すとでも?》
音だけであるならば澄んでいる筈の、そのねとりと纏わりつくような声に、俺は口の端を持ち上げる。
ルシフェルの瞳に、自虐的に哂う自分の顔が映った。
「ハッ・・・可能性の話さ。それも、限りなく低い可能性の、な。――――あの人が俺の生を望むなら、それがどんな理由だろうと・・・・・・俺には、逆らえないさ。」
それは呪縛。
抗う事など出来ないと、理解していたからこそあの人はそれを残して逝ったのだろう。
幸福だった思い出の全てが呪印。
彼女の言葉の全てが呪言。
裏切る事など出来はしない。
それほどまでに、あの人は自分にとって特別な存在だった。
俺のその言葉に、
満足げにルシフェルは哂う。
《成る程な。それなら構わないゼ。教えてやろう、死者の声の聞き方を、な。》
まるで地獄へ誘うように
艶やかに笑ったその手を俺は躊躇う事無く取ったのだった。