その昔。それこそ神話の時代に、その世界はこの世界と繋がっていた。


 不可視で超然的な次元の壁が世界と世界を隔てていることに今と変わりは無いが、その頃は物語の中でのみ肯定される存在が、この世界――――俗に言う人間界にも、闊歩していたのだ。人々はその世界の存在を崇め、祀り、或いは畏怖し敬遠し、そうやって世界は繋がっていた。

 その世界、神話界と、人間界と―――冥界は。
 そしてまだ人々の信仰心が根強く、世界が魔力と生命力に満ち満ちていた頃、神話界の北方に位置する領域で、彼の存在達は息づいていた。 



 北欧の神々である。



 勇敢なる戦の民の崇める神々は、その領分で巨人族や小人などと呼ばれる者達と奪い争いときに共謀し共感し、共存してきた。
 常若の林檎を食べることで老いることも無く、大小さまざまな問題を内包しながらその神々は自ららの国で生きていた。

 しかし巫女は語る。
 世界の滅びを。
 それを齎す者の名を。



 その名はロキ。



 策略と姦計と裏切りの渦中に座する者。神々の仇敵、巨人族を両親に持ちながら主神と義兄弟の契りを交わした者・・・それが彼だった。
 数百年前。裏切られ、裏切り、それを繰り返しロキが神々の世界から追われ―――人限界へと逃げ延びたのは神話界と人間界が繋がりを絶った丁度その頃。
 道を絶たれ神話界へ戻ることも出来なくなった代わりに神話界からの追っ手も無くなり、ロキはそれ以降を人間界で生きてきた。


 ただ、独りで。
 つまり


「僕の正体を知る君は神話界の者に他ならない―――と、そういうことなんだがね、ここで一つ問題が生じる。」


 キィ・・・と古い回転椅子が軋み、青年、夜彦の方を向いたロキは夕陽の斜光に髪を紅に燃えさせて翠色の瞳を眇めた。


「君は―――――――何処の眷族の者なのだい?」


 神話界、と一括りに言っても、そこには様々な種が存命する。
 巨人族、小人族、妖精族・・・。古の時代には人間界にいた者達も今は神話界か冥界かのいずれかに移り住んだ。と、ロキは聞いている。それに、神と言っても北欧神話の領域以外にも当然神々は存在し、また、北欧神話の領域に住まう神でさえ、二つの眷属に分かれるのだ。
 即ち、主神率いるアース神族と、隠遁した忘却の神々、ヴァン神族だ。
 強い魔力を用いれば、どの種族も人間に化身することは可能。外見からそれを判断することは出来ない。
 しかし、


「お答え、致しかねます。」


 夜彦は頭を下げたままに、そう言った。
 全体的に古びた、けれど古臭いというのではなくむしろ歴史を感じさせる落ち着いた印象の執務室で、木目の美しい事務机をはさみ、二人は対峙する。
 場所はロキの自宅である、ヨーロッパ風の豪邸、といっていい風格と面積を誇る屋敷の中。しかし場所を変えてもその雰囲気は変わらず、ロキは夜彦の頭を覆う漆黒の髪を胡乱気に見つめた。


「答えられないって君ねぇ、今時身元不明の成人男性を雇えるとでも思うのかい?」
「雇うなんて・・・賃金など要りません。ただ、お傍に置いてくださるだけで結構ですので。」
「だからねぇ・・・」


 はぁ、
 溜息をこぼし、ロキは自らの眉間を押さえる。その水色の色彩を見せる瞳には、恐喝男達に向けられたような侮蔑の色は無い。あるのはそう、聞き分けのない子供に物事の道理を噛み砕いて説明させられている父親のそれだ。


「いいかい、君もご存知のことだろうが僕は追われている身なんだ。そして僕は君を敵だと考えている。ただ僕は敵が多いから一括りに敵といっても当てが多すぎる。けれど君が誰の使者かがわからなくては色々と困るのだよ。とはいってもだから雇い主を教えろといったところで君は答えられないだろうからせめて何族なのかを教えてくれと言っているんだ。これは僕からすれば最大の譲歩だよ。」


 大げさに両手を広げて言うが、その内容は要訳すれば「種族さえわかればお前の雇用者が誰なのか大体特定できるから手の内を明かせ」だ。そう言われてはいそうですかと答えられるわけがないのだが、一転、ロキは夜彦を心底心配している様な眼差しを藍色の瞳に乗せ、声音を落としてまっすぐ見つめ返してくる金色の瞳を覗き込んだ。


「それに、巨人族か神族か妖精族か黒妖精族かはたまた冥界の死者なのか。わからないことには君をどう扱っていいものやら解りかねるじゃあないか。黒妖精族ならば如何な魔法を用いても日の光を浴びるのは辛かろうし、死者だとすれば生界にいるだけで負担になるだろう。その程度も判らず雇えというのは無理が過ぎるじゃないか。・・・そうだろう?」


 だから教えろ、と、いたいけな子供の姿をした悪魔は囁く。それに一瞬心動かされたらしい夜彦は、しかし小さく呻くと弱弱しく首を左右に振り、「言えません」と呟いた。


「何故だい?」
「その・・・私は神族の御方々の血を継いではおりません。それは誓って言えることです。また、妖精族の方々や、黒妖精族の方々とも違います。」
「では冥界から来たのかい?」
「いいえ。ただ・・・関わりが無いとは言い切れません。けれど私は死者では御座いません。決して。これも、誓って言えることです。」
「つまり巨人族かい?・・・いや、違うな。つまり・・・君は巨人族と、その三種以外の種族との混血児、と、そういうわけかい?」
「はい。そのように記憶しております。」
「なるほどねぇ」


 異種族結婚によって生まれた命。と、いうわけだ。
 しかしそれは神話界において――――少なくとも、北欧神話においては、さほど珍しいことではない。

 猛き者者は常に、より強く、より優秀な子孫を生み出そうと画策した。
 多くは神と巨人族が結びつき、神の国に吸収されていったし、誰もそれを恥とはしなかった。
 むしろ、そうして生まれた猛者を誇ったのだ。

 けれど巨人族自体は神に疎まれた。
 つまり、彼ら神にすれば自ららの血統を引くならその半分が穢れていようがどうでもよかったのだ。
 心が広いのか狭いのか判らない。

 否、
 何も考えていなかったのか、と、ロキは哂う。
 愚かしい神々は―――――己らが巨人族から分離した、巨人族の血を引くものであるという事実を棚上げして自分達と巨人族を区別し排斥しようとしているのだから。

 そう、元々は同じなのだ。
 だから、仲間になれるのだと信じて・・・

 否。今は関係の無いことだ。
 ロキは脱線しかけた思考を軽く頭を振って振り払った。


「まぁいいだろう。丁度僕はここ数百年退屈していたし、君の事も、何故だろうね、疎ましくは感じない。それに、敵か否かその出自さえも判らない来訪者を懐にいれるだなんてなかなか趣向があって面白そうだ。」
「それでは」
「あぁ。君を僕の傍に仕えさせてあげようじゃないか。」




 ―――――夜彦君。
 囁くように名を呼ばれ、
 金の瞳の青年は「ありがとう御座います」と返し、再び頭を下げたのだった。


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