その日から、ロキと夜彦の共同生活が始まった。
 朝、ロキは夜彦の声で起き、夜彦の作った朝食を食べ、食後の読書を過ごしている間に夜彦は屋敷を掃除し、正午に夜彦の作った昼食を食べてから街へ出掛ける。
 そして『食事』を終えて深夜、夜彦に出迎えられて帰宅し、軽いティー・タイムを過ごしてから眠りにつく。そんな毎日が繰り返された。

 目立って夜彦に不振な点は無く、あるとすればそれは食事をしているところを見かけないだとか、そんな程度のことで、
 何を仕掛けてくるかと楽しみにしていたロキは拍子抜けしたが、二ヶ月も経った頃には夜彦と二人の生活に馴染み、満足感を覚えるようになっていた。
 当然、そんなことは億尾にも出さないのだが。














 




 だからその日も、馴染み始めた日常が繰り返される―――――――
筈だった。

























 ざわり、と、
 力ある一部の限られた者にしか感知できないほど僅かに、けれどはっきりと、
 世界が揺れた。


「っ!!?」
「―――落ち着きたまえ、夜彦君。」

 
 確かに感じた異変に息を呑んだ夜彦をロキが本に視線を向けたまま嗜める。
 しかし夜彦は自らの胸を服の上から握り締め、主を見つめた。


「ロキ様、今のは」
「ふむ、どうやら何か強い魔力を持つモノが人間界へ落ちて来たようだね。君の仕業じゃあ――――」
「っ、違います!!」
「分かっているよ。君に人間界から神話界への道を繋ぐほどの力が無いことぐらいは既に認知しているからね。
 十中八九、神話界側で何かあったのだろう。まったく彼らは管理が杜撰だからねぇ。」


 言ってくつと笑い、ロキは本を置いて立ち上がる。
 出掛けるには早い時間だ。しかし「お出掛けになられるのですか?」という夜彦の問いにロキは慇懃に頷いた。


「まさか、今の異変に何かお心当たりでも・・・?」
「その予想は外れだよ夜彦君。神話界と繋がりを絶った僕が神話界での変事に関与しているはずもないだろう?」
「では、何処に」
「勿論異変を見に行くのさ。」


 歌うように答えたロキの返答に夜彦はきょとんと目を瞬く。
 そんな彼を見て、ロキは愛らしい幼児の外見で肩を竦める。


「やれやれ、この60日余りを共に過ごして思ったが君は少々鈍いようだね」
「申し訳ございません」
「謝る必要は無いよ夜彦君。一方向から見れば欠点であるその鈍さも、別の場面別の視点から見れば美点となりえるのだからね。 いいかい良く聞きたまえ夜彦君、関わりが無いからと言って決して関わってはいけないというルールはどこにも存在し得ないのだよ。つまり――――」
野次馬ですか?」
「そういうことだよ。君も来たまえ。気になっているのだろう?」

 
 滑らかなアルトの声でそう誘い、返事も待たずロキは上着を羽織って扉へと向かう。
 その後を、慌てて夜彦は追いかけたのだった。





























 異変を感じた方角へ、夜彦は鳥等に変化できないため徒歩で向かう。
 とは言っても幸いと言うべきか変事が起きたのはそれほど遠くではなく、あと20分も歩けば着くだろう距離だ。
 なにやら上機嫌の主を斜め前に見て、夜彦はそっと、先ほどそうしたように自らの胸元を握り締めた。







 ――――違う、と、先程は言ったけれど、





 

 不安が這い登ってくる。
 本当は、自分が原因なのではないか、と。
 なぜなら、自分は――


「よぅ!なんやあんさんも異変見物かいな」


 機械的に歩みを進めながら深みへ沈んでいこうとしていた夜彦の思考は、
 前方から掛けられた能天気な声に遮られた。
 夜彦が顔を上げれば、こちらに向かって手を振り歩いてくるその人物とまともに目が合った。
 男は、「はぁん」と何やら興味津々な―――言い方を変えれば、値踏みするような眼差しで夜彦をじろじろと凝視する。


(あん)ちゃんがロキんとこの居候やな?我らの間でもっぱらの噂やで」
「う、噂?」
「ヘルメス、自己紹介も無しに話を進めるのは君の悪い癖だと僕は数百年に渡る付き合いの中で幾度となく忠告してきたと思うのだが、身についていないところを見ると君にとって僕の言葉など記憶する価値も無いもののようだね?」


 戸惑う夜彦を庇うように冷ややかなロキの声が二人の間に割り入って、『ヘルメス』と呼ばれたその男は大袈裟な仕種で両手を上げると「堪忍堪忍」と笑っていい、一歩下がって先程までの騒々しい態度からは想像も出来ないほど完璧に優雅な礼をしてみせた。
 そして、ニィ、と狐のように笑う。


「我はギリシヤ神話界に住む神様のヘルメスや。よろしゅぅな」
「は、はい。私はロキ様に仕えさせて頂いております海夜彦と申しま… ! ヘルメス様!?


 思わず状況に流され礼を返した夜彦が途中でその名前の意味に気がつき声を上げる。
 ギリシヤ神話のヘルメスと言えば医学の象徴である杖の持ち主であり、旅人と商売と泥棒を司る伝達の神だ。北欧神話でのロキと同じく、平穏な神話界に騒動を巻き起こすトリックスター的な神なので、神話にさほど造詣の無い人でも名前ぐらいなら知っている有名な神。

 それが何故、神話界ではなく人間界に居るというのか。
 人間界と神話界の間を繋ぐあらゆる道も橋も、閉ざされたのではなかったのか。


「ヘルメスは伝達の神だからね、こうして神話界・人間界・冥府の三つの世界を自由に行き来する許可を与えられているのだよ。」
「っ、え?」

 
 夜彦の疑問を読んだかのように、ロキがさらりと口にした。
 思わず目を瞬いた夜彦を見て、ヘルメスが首を傾げる。


「ん〜?なんや兄ちゃんそないなことも知らんのかいな。あんなぁ、いくら神話界(あっち)人間界(こっち)が繋がり絶った言うてもそんなん完全に切ることなんかできるかい。我ら神様の仕事が出来へんなるやないか。第一な、幻想世界のモン全員が神話界に戻ることが不可能やのに関係完璧に絶つなんて出来へんやろ」
「で、出来ないのですか・・・?」
「はぁ?当たり前やないか。神話界に戻らされてしもたら、夢魔とかどないすんねん。あいつら人間の夢だの精気だの食うて生きとんのやで?餌無くのぉたら死んでまうやないか。」


 至極あっさりと言われたその言葉に夜彦は絶句する。
 夜彦は、神話界と人間界の繋がりは完全に絶たれているものとばかり思っていたのだ。
 だというのにロキとヘルメスは夜彦の反応を見てまるで海の水がしょっぱいことも知らない人間に出会ったように顔を見合わせる。
 何故そんなことも知らないのかと疑問を宿した瞳を向け、ロキが口を開く。


「君は本当に知らないのかい?」
「その、申し訳ございません。」
「や、謝ることは無いねんで。うん。そやけどちょっと可笑しないか?こんなん神話界でも人間界におるモンの間でも一般常識やで?」


 ずい、と、ヘルメスが夜彦に顔を寄せた。


「兄ちゃんホンマに何モンや?」


 真剣な問いかけ。
 それに息を詰まらせ、夜彦は身を強張らせる。
 








「わ―――――わたくし、は








 震える声で夜彦が言葉を紡ごうとしたとき、
 爆音が、晴天の町並みを引き裂いた。

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