「!?な、何が」
「落ち着きたまえ夜彦君。」


 突然の爆音に狼狽した夜独はロキに制され口を噤む。
 「状況は?」と問われたヘルメスは、肩を竦め「状況も何も」と口を開いた。


「重量トラックがそこの角曲がった所にあるガソリンスタンドに突っ込んだようやけど――――あんさん、異変と関係ある思います?」
「無関係にしてはタイミングが良すぎるけれど・・・どうだろうね、世の運命の女神は気まぐれな方ばかりだから断定は出来ないよ。」


 淡々と応じ混乱の只中へロキは歩みだす。半歩送れてヘルメスが歩き出し、二人のあとを追い夜彦も歩みを進め―――
 ―――角を曲がり、眼前に広がった光景に息を呑んだ。

 轟々と燃え、暗黒色の煙を晴天に向かって吐き出す炎。煽られる熱風。悲鳴。怒号。
 渦を巻き発生する“穢れ”に、夜独は思わず口元を覆い、爆発に巻き込まれたのだろう地に伏しのたうち呻く人々から涙の浮かんだ目を逸らしたとき、
 ヘルメスが一歩踏み出した。


「――――まやかしでも、安寧を。」


 いつの間に出したのか、その手には身の丈ほどの杖。
 蛇の絡み合うそれを高く掲げ、薙ぎ払うように――――振った。

 途端風が巻き起こり、逃げ惑っていた人々が倒れ、呻き声が消える。
 その光景に目を瞠った夜独の横でロキが微笑んだ。


「成る程眠りを齎したか。好判断だね。」
「これが我の仕事やからね。ほんでどないする?これが唯の事故なんやったら我らが関与する謂れはあれへんけど?」
「そうだねぇ、まぁ、折角居合わせたのだし、コレも何かの示し合わせだろう。消火活動でも手伝って――― !」


 言葉を切り、突然ロキが険しい表情で一点――トラックの進んできた道だろう――を見据え、沈黙する。
 どうしたのか、と、夜彦が首を傾げたとき、ロキが口の端を吊り上げた。


「あぁ、ヘルメス。君の判断は本当に正しかったようだ。―――どうやらこれは異変が齎した二次災害のようだね。」
「え?」


 言葉の意味が判らず疑問符を浮かべた夜彦はロキの視線の先へ目を向ける。
 酷い煙と熱に視界を阻まれながら目を細め、じっと凝視して―――ゆらり、と、見えた小さな影に眉根を寄せた。
 

「あれは―?」
「隠れるよ」
「そら賢明や」


 影がはっきりと像を結ぶより早く、テンポ良くロキとヘルメスが言い唯一事態を把握していない夜彦の腕をそれぞれ掴むと右手に向かって駆け出した。
 突然の行動に「え、あの?!」と夜彦が奇声を上げるのを無視し建物と建物の間に滑り込んだロキとヘルメスは、夜彦を一番奥へ押し込み鋭い眼差しを見合わせる。


「場を歪めて此処に人間達が足を踏み入れないようにできるかい?他の野次馬や消防隊が来たら面倒な事になる。」
「言われんでももうやっとるっちゅうねん。しっかしそうなると、我らであの火ィ消さんとまずいんちゃう?」
「ああ、まったくその通りだよ平安と騒動を司りし同胞。だがアレを如何にかしなければその作業は困難極まるだろうね。」


 一体何の話をしているのか。入り口を二人に固められた上に何の説明もして貰えない夜彦は戸惑い二人の顔を交互に見比べるがそれで答えが解る訳でもない。
 先ほど見た影こそがロキの言う『アレ』――――異変の原因なのだろうとは判るが、生憎はっきりと見る前にこの路地裏へ連れ込まれたためそれが何であったのかなど判らない。
 
 思い出す。黒々と立ち上る黒煙の向こう、熱気に揺れる視界の先に見えた影を。
 確か、あれは――――


「盾を持った、人影―――?」


 呟きに、二人が同時に夜彦を見てから視線を交わす。
 ヘルメスに目で促され、溜息を吐いたロキは口を開きはっきりと、言った。














「アイギス」














 端的な単語のみの言葉に夜彦が疑問符を浮かべる。 
 それを見るまでも無く、ロキはその外見に似合わない仕草で肩をすくめ、炎を映して赤々と燃える瞳を細め続けた。


「遥か古、神話の時代。ギリシアの女神アテネが英雄ペルセウスに貸し与えた――――全知全能の神ゼウスの盾だ。」
「!」


 息を呑む。他の神話の話とはいえ、それはあまりに有名な怪物退治の物語。
 物語自体を知らない人でも、メデューサの首が中央に飾られた盾と言われれば何かしかの琴線に触れるのではないだろうか?
 その効力を思い出し、夜彦は息を呑んだ。


「まさか―――そんな、」


 メデューサと視線を交わしたものは、例外なく石となる。
 神ですら抗えないその能力は絶大にして冷酷。一度石となればそれを解く術は無い。
 そんなものが、何故、人間界に?


「ま、考えとってもしゃーないわ。目下の問題はアレをどないして無力化するかっちゅーことや。」
「同感だね。幸いというか、持っているのは何の力も無い人間のようだ。―――まったく愚かしい。唯の人間が神の所持物に触れて無事で済むはずもないだろうに。」


 哀れむように蔑んで、やれやれと首を振ったロキの言葉に夜彦は目を瞬いた。
 無事ですまない、とは、どういうことか。確かに神々の所持物には例外なく膨大な魔力が備わっているが―――
 夜彦の疑問に答えるように、ヘルメスがその杖で肩を叩き、軽い口調で言った。


「死んでまうやろなーあれは。」
「な――!?」
「知らんみたいやから教えたるけどな、我らが思うほど人間は丈夫とちゃうねんで?そら英雄言われる連中はまた別やけど、大多数の人間が、我らがちぃと力開放しただけで当てられて死んでまうんやから。しかもアレはウチのアホ親父…っと、ゼウスの旦那の虎の子やで?しかもメデューサの生首付けてんねんから普通の人間やったら呪いに耐えれるわけないやろ。」
「呪い・・・」


 聡明で美しかったゴルゴンの三姉妹。母親が女神の不興を買ったばかりに、醜い姿に変えられた乙女達。
 そして、唯一不死でなかったばかりにその首を撥ねられ、盾に飾られ兵器として使われ続ける末娘のメデューサ。
 その嘆きは如何程のものか、余人に知る術は無い。
 そしてその嘆きを、恨みを、悲しみを、怒りを、人の身で受けきれるかと問われれば答えは否だ。
 

 何の力も持たぬ者が神々の秘宝に触れたならば、その先にあるのは後世に残る英雄伝説ではない―――絶対的な死、のみだ。
 ようやくそのことに気付いた夜彦は愕然とした。


「そんな・・・・・・! なんとか、なんとかならないのですか!?」
「なんとか、と、言われてもね。」


 支払うリスクが大き過ぎる。何度も言うが、メデューサの眼差しからは神と言えども逃れられないのだ。
 そして、その解除法は、無い。
 見ず知らずの愚かな人間一人の為に動くには、あまりにも益が無さ過ぎた。

 元来、神とは人が思うほどに便利な存在ではない。むしろ人間よりもずっと現金と言えるだろう。
 動くからには対価を求め、どれほど助けを乞われても滅びが定めであれば遵守する。薄情で冷血。そして気まぐれ。それを許される絶対的力を持つ存在を――――神と呼ぶ。
 しかもここにいる二人の神はどちらもトリックスターと呼称される神。その言葉の意味は『詐欺師』だ。残念ながら、夜彦の言葉一つで高いリスクを払い人助けをしてくれるほど人情溢れる神では無い。されに言えば、内の片方は神を辞めている。

 助ける謂れは無い。肩を竦める二人の神に、夜彦は怒りで目を見開いた。
 

「あなた方は――――っ、それだけの力を持ちながら、救おうとは思わないのですか!?不可能ではないというのに、安易な道へ逃げ一つの命の灯火を吹き消そうというのですか!!」


 力があるのに。知恵もあるのに。――――神なのに。
 夜彦の慟哭に、ロキは双眸を翡翠色に煌かせ、笑みを浮かべるわけでもなく言った。


「力があるからだよ。」
「え―――?」
「力があるかこそ選ぶんだ。力があるからこそ、それを安売りしてはいけない―――人間は、容易く堕落する生き物だからね。」


 力無き者を力在りし者が護るのは義務ではない。権利だ。
 力無き者にある選択肢は二つ。抗うか、受け入れるかのみ。抗うならば、力が欲しいのならば――――相応の代価を。
 それが摂理。代価無くして得られる力など、無い。

 その言葉の意味が解って、解るからこそ、夜彦は奥歯を噛んだ。
 彼らの義務は神々の秘宝の回収。それのみが最も優先される事であり、他は全て切り捨てて構わないモノ。

 だけれどそんなの―――――あんまりではないか。
 強く拳を握った夜彦は、やがて静かに、低い声で「それでしたら」と呟いた。
 二人のトリックスターの眼差しを正面から受け止めて、強く、この数ヶ月間にないほど強く。夜彦は続けた。







「私が、対価を支払いましょう。」





 ――――だからどうか、哀れなる堕落者に救済を。

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