濛々と立ち昇る黒煙、その煙を吐き出す焔。
 人々は悉く地面に伏し眠りを享受し、聞こえる物音は風に煽られ燃える炎の音のみ。
 そんな奇妙な景観の中を、男が一人歩いている。


 がりり、がりりと、コンクリートの地面を削るのは巨大な盾。
 ゴルゴンの首が飾られた、その裏側から伸びる幾数もの縄のようなものが、その二の腕へ何重にも巻きつき、上は首元、下は膝までを鎧の如く覆っている。
 男の顔は見えない。正面からそれを確かめようとすればゴルゴンの眼差しが容赦なく見るものを石に変えるだろうから。
 危険を冒して見るほど、価値のあるものではない。
 
 それを言うならば、あの愚かな人間の命だって、危険を冒してまで助ける価値などありはしないのだけどねとロキは質量的には軽い溜息を吐き出した。
 ゼウスの秘宝、アイギスの盾を回収するだけならば、宿主に選ばれたあの人間を遠距離から殺してしまうのが一番手っ取り早く一番安全で確実であるというのに。
 

「愚かしいね。」
「なんやロキ、あんさんまぁだグチグチ言うてんのかいな。」
 

 独り言の体で地面に落とされた呟きに、ヘルメスが呆れたような様子で言葉と眼差しを向けた。
 その手は長い布を持っており、その布は夜彦の両瞼を覆うように巻かれている。
 

「ああ奇知と策略の神、僕は声を大にして幾度でも言おうじゃないか。まったくもって愚かしいよ君達は! 確かにあのアイギスに対して最も有効な対策は『見ない事』さ、それは僕も認めよう。しかし両目を塞ぎ光まで遮って、それで一体全体何をどうしようというのだい? 見えなければ目標の元へたどり着く事も、ましてやあの人間を救う事も不可能じゃないか!」
「んなもんは我かて判っとるわ。けど本人がこれでえぇ言うてんねんからええやないか。」
「あ、あの、本当に大丈夫ですから…」
「何がどう大丈夫なのかの説明も満足に出来ずどう安心していいのか理解できないね。」
「う…す、すみませ…だけど本当に大丈夫ですので」
「だからくどいね君は!! 何の説明も無しに『大丈夫』の一点張りで一体どう安心しろというのだい!!」
「くどいんは君やロキの旦那」


 苛々と声を荒げたロキへ、温度の低い冷ややかな声が落とされる。
 エメラルドよりも薄い緑の、ペリドットのような瞳が声よりも更に冷たくロキを射抜いた。


「我ら神は“力”や。力は使う者の意志に忠実であればそれでええ。この兄ちゃんが対価差し出してんから我ら力は従うだけやろ。操縦通りに動かん車なんて不良品以外の何でもないやないか。」
「それは…っ、けれどねヘルメス」
「けれどもでもも無しや。あんさんが自分の気に入ったヤツに危険な事やらせたないんは判るけど言質とられて対価差し出されてまだグチグチ文句言うんは見苦しいだけやで。……いっつもやったら、これあんさんの台詞やろぅに。」
「っ、」


 呆れたように、そして駄々っ子を諭すように言われて、何より相手の言い分の方が正論であるが為にロキは言葉に詰まった。
 ロキが言い負かされるなど、数百年に一度あるか無いかの事だ。初めて見る「説教されるロキ」という図に、渦中でありながら夜彦も思わず感心してしまった。
 しかし直ぐに、それが自分のせいだと思い至って申し訳なさに顔を歪める。
 そんな夜彦の変化に気付いたロキは何か言おうとして、しかし肩を竦め溜息を吐き出して、やがて「分かったよ」と降参の意を表した。


「認めよう、確かに僕が見苦しかった。“命”という最大にして最強の対価を払われた以上、僕らは行使される力に過ぎないのだから文句を言う権限など無かったよ。――だからそんな顔をするんじゃないよ夜彦君。君は迷わず明瞭な意志を持って僕ら“力”を行使すればいい。」
「…っ、その、申し訳ございません…」
「まったくだよ。しかし対価があれば動くと言ったのは僕だ。」


 自身の命を危険に晒すという事は、その行動自体が対価となり得る。
 彼らにとっては何の益も無い契約だが、命を差し出された時点で断る事などできない。
 それは最も無価値で高価値の対価。カードのジョーカーにも似た最強の切り札なのだ。

 見合う対価があれば動くなどと、言わなければ夜彦は思いつかなかっただろう。ならばこの場合、ロキが夜彦を唆した形になる―――当人にその意志がなくとも。
 一億年に一度あるか無いかの失態に、やれやれ今日は厄日だねとロキは肩を竦めた。


「しかし契約者であるという以前に僕らは主従関係にあるんだ。目的の達成が無理だと判断したら止めるよ。有能な秘書を失いたくは無いからね。」
「は…はい!」


 「有能な秘書を失いたくは無いから」――それはロキにとって夜彦がそれだけ価値のある存在だという証の言葉。
 込められたその意味に、夜彦はなんだか泣きたい位嬉しくなって同時にやっぱり申し訳なくて、背筋を伸ばして強く応じた。
 その横で、ヘルメスがにぃと愉快そうに唇を歪めて笑う。









「ほんなら、作戦開始(ミッションスタート)
! やな」









 高らかな宣言と共に、
 夜彦が、裏路地を飛び出した。
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