――大沢朋幸には小学六年生まで、無二の親友とも呼べる幼馴染みの少年が一人いた。
 名前を天野秋広という。
 母親が書店で適当に手に取った子供の名前事典を適当に開いたページでたまたま目についた名前が、秋広、だったらしい。字も簡単でいいじゃない。だそうだ。

 秋広の母親は水商売を生業としていた。
 毎日派手な化粧衣装に身を包み、染み付いた煙草と酒の匂いを過剰な香水の匂いで隠せていると思っている、そういう女性だった。自分の事が大好きで、自分以外は大嫌いで、快楽と享楽と愉悦が好きな、他人を破滅させる為だけに存在しているような、そんな人間だった。

 秋広の父親も、だから、そういった観点からのみ鑑みるならば被害者だったと言えるだろう。元はそれなりの会社のそれなりの役職に就いていたらしいその男性は、しかし秋広が三歳を数える頃には既に、もう、駄目になっていた。酒に溺れて家中を酒瓶や空き缶で埋め尽くし、ギャンブルに溺れて多額の借金を抱えていた。「こんな筈じゃなかったのに」と、「お前さえいなければ」が口癖の、子供のように癇癪を起こして頻繁に暴れる、そういう男性だった。
 女はいつも、そんな男を見下しせせら笑っているようだった。殴られてさえも、怒鳴り返していても、どこかでそれを楽しんでいるような目をしていた。

 互いに憎しみ合って、互いを摩耗し合って、互いに殺し合っているような、
 そんな夫婦が秋広の両親だった。

 養育費なんて払う余裕もつもりも無く、手続きすらも面倒がって、だから秋広は幼稚園にすら通っていない子供だった。そんなものの存在さえ知らずに、毎日黙々と部屋の掃除をしているか、罵声を浴びせられているか、暴力を受けているか、ボロアパートを囲む塀の中の隅っこで蹲っている。それだけが少年の日常だった。
 朋幸と出会うまでは。

 かくれんぼを、していたのだったと思う。
 朋幸はその日、友達とかくれんぼをしていた。五歳になる年の、秋口頃の事だ。それが何月の何日だったかなんてもう覚えてはいないけれど、でも、その日のことを朋幸は決して忘れない。
 隠れ場所に選んだアパートと塀との僅かな隙間に、先客がいた。
 大きな、一目で大人の物だと判る、雑巾みたいに汚れたシャツを着て蹲っていた。着ている物はそれだけで、足だって裸足だった。

 朋幸は――驚いた。立ち竦む程に驚いた。
 秋広はただ、そんな朋幸を緩慢に見て、まるで見えなかったみたいに地面へ視線を戻しただけだった。その態度に、朋幸は当時、無視されたと怒りを抱くよりも、興味を唆られたのだ。自分が知る誰とも違う少年の様子に、好奇心を抱いた。

 何してるの、と聞いたが返事は無かった。もう一度、今度は隣まで歩み寄って繰り返した。少年は酷い匂いがした。けれど、なぜかあまり気にならなかった。朋幸自身が既にそのとき、泥まみれだったからかもしれない。
 別に、と、今度は投げやりな返答があった。
 ふぅん、とよくわからないままに頷いて、その隣に座って。覗き込めば秋広はそれにさえ気づかない様子だった。何も写していないらしいその瞳は、けれど朋幸が知る誰の瞳よりも明るい色彩をしていて、綺麗だった。
 それだけで朋幸は秋広を好きになった。

 かくれんぼをしていた事も、一緒に遊んでいた子達の事も忘れて、そうしてずっと隣に座って秋広の目を見ていたように思う。
 夕方になって、カァと鴉が頭上で鳴いて、それで漸く、帰らないと、と思い至った。
 秋広は動かない。
 帰らないの、と聞いたら、別に、とやはり投げやりな返答。それにふぅん、とよくわからないままに頷いて、
 それじゃあまた明日ね。
 そう言って別れた。
 単なる定例文として、いつもそう言って別れるから、だからその意味なんて考えもせずに、口にしただけのものだった。
 それが秋広にとってどんな特別な言葉になるかなんて露程も知らずに。
 それが秋広にどれほどの変化を与えることになるかなど知りもせずに。

 それから、毎日のように朋幸は秋広の元へ会いに通った。誰にも内緒で、一人だけで。
 最初の頃はただ何もせずに並んで座って、朋幸がぼーっと秋広の目を眺めているばかりだった。三日か四日経った頃からは、朋幸が一方的に自分の事をしゃべるようになった。好きなもの、幼稚園のこと、友達のこと、家族のこと、今朝みかけた野良猫のこと、飛んでいた鳥のこと、変な形をした雲のこと、綺麗に咲いていた花のこと、そんな他愛のないことばかりを喋った。

 秋広は、最初は何も言わず、だから聞いているのか聞こえていないのかも判らなかったけれど、だんだんと、朴訥に、それは何、とか、どんなの、とか、会話らしいものをしてくるようになった。
 それが、朋幸にはなんだかとても嬉しくて、
 そのうち一緒に遊ぶようになった。地面に絵を書いたり、おままごとのようなこともした。どちらかというと冒険ごっこと言ったほうがより正確かもしれない。

 ただ、アパートの敷地からは一歩も出なかった。
 出られないと、秋広が言ったからだ。ここからは、出られないのだと、秋広はむずがるように言った。朋幸はよくわからなかったが、じゃあこの中で遊べばいいやとそう完結して、気にしなかった。なんとなく、このなかだけで少年と二人遊ぶことを特別に思って、得意にもなっていた。
 なんてバカな子供だったのだろうかと、思い返す今は苦く思う。

 秋広は――
 大きすぎるシャツを洗濯バサミで器用にたぐって、幼稚園のスモックみたいに、あるいは長袖のワンピースみたいにして着ていた。
 だから、なんて言えばそれは言い訳なのだろうけれど。
 それでも、
 だから、気づけなかった。
 少年の体がどれほど傷だらけか。走ったり、跳んだり、そういう運動を嫌がるのは何故なのか。

 ある日、秋広は顔に酷い痣を作っていた。
 ただただ驚いた朋幸は、どうしたの、と当たり前に尋ねたのだ。
 秋広は朴訥に、転んだ。とだけ言った。
 何も知らなかった朋幸はいつも通りに、ふぅん、とよくわからないまま頷いて、痛い? と訊いた。それに秋広は、別に、とだけそっけなく返した。朋幸はその言葉を額面通りに受け止めて、さして気に留めなかった。
 そんな事が何度かあって、何度もあったのに、それでも、
 気づかなかった。
 気づけなかった。

 小学校にも秋広は来なかった。
 朋幸は毎日のように、学校の話をした。
 秋広はそれを、どこか知らない国のお話みたいな、白雪姫とか、ウサギとカメみたいな、物語を聞くのと同じ顔をして聞いていた。まるで自分のいる世界にはそんなものはなから存在しないと知っているみたいに。羨ましがりすらもせずに。
 ただ、唯一給食の話はとても羨ましがった。給食のパンをこっそり持ち帰って渡したら、目を丸くして、とても喜んで、美味しいと言ってくれたから、パンの日はいつも持ち帰るようになった。あんまりそれを喜ぶから、朋幸も嬉しくなって、家のパンやお菓子を持ちだして秋広へ渡すようになった。

 それを同級生に見咎められた。

 二学期の終わり頃の事。
 そのときの標語が『給食を残さず食べましょう』で、だから同級生は朋幸の行為を大きな声で非難したのだ。口論になって気の短い朋幸は相手に殴りかかった。担任がなんとか止めに入って、両親の知るところとなった。

 どうしてあんなことしたの。
 どうしていつもパンを持ち帰っていたの。

 朋幸はそれでも、口を、閉ざした。言いたくなかったのだ。だって、二人だけの秘密だったから。秋広は朋幸だけの、秘密のともだちだったから。誰にも知られたくなかったのだ。
 結果、外出禁止を言い渡された。
 頭を鈍器で殴られでもしたような、酷いショックを受けた事を覚えている。
 何日も遊びに行かせてもらえなくなった。送り迎えまでされて、もう一生秋広には会えないのではないかとさえ思った。後々母親から聞いたところによると、実際はたったの二日間だけだったらしい。
 三日目に、朋幸は脱走したのだ。

 電話をしている隙に堂々と玄関から出てったのよアンタ。なんて言われたけれど、実のところ朋幸はそこらへんをまったく覚えていない。
 その後に、もっと衝撃的なことがあったからだ。
 逃げ出して、いつものボロアパートへ向かって、辿り着いて、だけど秋広はいなかった。いつものあの隙間にいなかった。少し探して、それから、家の中にいるんだろうと思い至った。
 だから一部屋ずつドアノブを回してまわった。
 大人になってから考えてみれば目茶苦茶をしたものである。

 一個ずつドアノブを回していって――
 ひとつだけ開くドアがあった。
 中から、怒鳴り声の聞こえてくるドアだった。
 恐いと思った。だけど、その時の朋幸はかなり意固地になっていたから、

 ドアを開けた。

 怒鳴り声が一気に鮮明になったけれど、何を言っているのだか判らなかった。呂律はほとんど回っていなくて、ただ暴力的に声を張り上げているだけのようにも思えた。
 おまえのせいで、とか、こんなはずじゃなかったのに、とか、
 おまえさえうまれてこなければ
 酷い匂いがした。
 玄関の、もうすぐ目の前からリビングの狭い部屋は、酒瓶が近くで割れていて、男が怒鳴っていて、ゴミ溜めの中に身を隠すみたいにして、
 秋広がいた。
 顔を庇うように小さく丸まって、
秋広が、いた。
 朋幸は頭の中が真っ白になって、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 何が起こっているのか。
 何が怒っているのか。

 朋幸には理解できなかった。まだ七歳になったばかりの小さな脳味噌ではまったく理解が及ばなかった。少女の狭い世界の中には、こんな醜い恐ろしいものは無かったのだ。
 男は怒鳴り続けている。
 テーブルを蹴りあげて、
 きいてるのか、と
 秋広を踏みつけた。
 おまえまで
 おまえまでおれをばかにしているのか
 何度も、何度も、何度も、何度も、

「やめろ!!!」

 腹が立った、なんてものじゃない。
 わけがわからなくなるくらい、怒った。怒って、朋幸は男に体当たりしていた。踏みつける足にしがみついて噛み付いて――振り払われて蹴られて怪我をした。それでも何度も向かっていった。
 殺してやると、

 何かを殺したいと、そのとき朋幸は初めて思った。殺意なんてものを、朋幸はそのとき初めて抱いた。そのときの朋幸は、本当に、ただ純粋に、男を殺そうと思ったのだ。
 この男を絶対に殺してやると、決意していたのだ。
 相当に暴れたのだろう、さすがに近隣の住民が様子を見に出てきて、大騒ぎになった。止めに入った人が何人か怪我をしたらしい。それでも暴れ続けて、男の方も相当に暴れて、ついには警察まで呼ばれて、男が押さえつけられて、大人しくなって、それでも朋幸は暴れ続けた。
 どうしても殺したかった。
 母親の容赦無いげんこつによってそれは阻止されてしまったのだけれど。

 騒動の間中、ずっと部屋の隅でゴミに埋もれながら呆けていた秋広は、そのまま保護されることになった。父親は留置所に入れられて、数日後に何も知らず帰ってきた母親は酷い癇癪を起こしたらしい。
 あたしのものになにすんのよ
 あれはあたしのものなんだから、どうしたってかってでしょう
 かえせ かえせ かえせ!
 裁判沙汰になって、紙面にも載った。
 結局、両親とも懲役が科せられたらしい。

 そのあたりの事情は後々になってから調べて知ったのだが、母親が懲役二年、父親は三年だった。親権剥奪手続きはどちらの親族も縁を切っているからと関与してくれず、難しかったらしい。養護施設に預けられた秋広は三年後に、父親の元へと戻された。
 朋幸の通う小学校へ、編入してきた。

 五年生の始業式の日、教室で、朋幸は秋広と再会を果たした。
 相変わらず痩せぎすで、一重の、のっぺりとした顔をしていて、歯並びが悪くて、姿勢も悪くて、だけど、
 教室で、朋幸を見つけて微笑った。
 はにかむように笑ったのだ。

 朋幸は泣いた。
 教室で、人目もはばからずに、大声で泣いた。泣きながら自己紹介もまだの秋広に抱きついて、しがみついて、わんわん泣き喚いた。泣き止むのに二時間もかかった。途中から保健室へ連れて行かれて、そのせいで秋広はろくに挨拶も出来なかったのだけれど、別にいいよと苦笑していた。
 それからの日々を二人は毎日、学校にいる間も放課後も一緒に過ごした。幸いというのか、朋幸は男子に混ざって遊ぶ事が多く男子からもほとんど女子扱いされていなかったので、秋広は朋幸を通して大した衝突も無く同級生らの中へ混ざる事が出来たようだった。

 帰ってきた秋広は朋幸の記憶にあるよりもずっと表情豊かになっていて、口数は少なかったけれど、それも記憶と比べれば随分しゃべるようになっていた。
 施設では優良児童だったらしい。
 年下の子達の面倒をよく見て、年上の子達との間を取り持って、おかげで随分と幼児同士の衝突が減ったと職員が話してくれた。これも後年に調べて知った事だ。けれど思い返せばクラスでも秋広はそういう役回りに自ら収まっていたように、朋幸は思う。

 幸せそうだった。
 満ち足りているようだった。

 少なくとも朋幸にとっては幸福な日々だった。……六年生に上がった年の、冬休みを意識し始める頃に、秋広が顔を腫らしているのを見るまでは。

 ――転んだんだ
 そう秋広は言った。朋幸の方を見もせずに、背中を向けてなんでもないふうに。
 朋幸はその後頭部を容赦なく殴った。
 たんこぶが出来るくらい容赦無い一撃だった。目を黒白させる秋広に、馬鹿にしてんのか、と泣きながら怒鳴りつけた。それから、あのおっさん殺してやると叫んで、走りだそうとした。
 本気で今すぐ殺そうと思っていた。
 血相を変えた秋広に結局は阻止されてしまったのだけれど。

 それから、二人が秘密基地と呼んでよく遊んでいた、近所の子供の脚でも登れるような小さな山の山頂にある荒れ果てた神社の境内で、話をした。
 家のことも秋広は話してくれた。
 最初は、ぎくしゃくしながらもなんとか同じ家の中でやっていけたこと。だけどだんだんと父親が情緒不安定になっていったこと。

 母親が、現れた事。

 面会を禁止されているというのに悪びれもせず、母親は何度も何度も訪れたらしい。そうしているうちに、父親はまたどうしようもなくなってしまったのだという。それでも、殴られたのは久しぶりなんだよと、秋広は苦笑して言った。

 朋幸は、悔しかった。
 何も知らずに幸せだなんて思っていた自分が、勝手に満ち足りていた自分が、あんまりにも馬鹿で、憎らしくて、けれど何よりも、秋広が何も言ってくれなかったことが悔しかった。また何も言ってくれなかった秋広に腹が立って、また何も出来ないでいたことが悔しかった。

 秋広は両親のことを、しょうがないよと言って肩を竦めるだけだった。恨んですらいないようで、それにまた腹を立てる朋幸に、親は選べないからしょうがないと、割り切ったような事を言った。実際、秋広は割り切っていたのだろう。きっともうずっと前から。割りきって、受け入れてしまっていたのだろう。わかりやすいくらいに不幸な、自分の人生を。

 だからか秋広は、生まれ変わったら、なんて話をした。
 生まれ変わってもまたお前を好きになる。そんなような事を真面目に言われた。朋幸には生まれ変わった後の秋広なんてどうでもよくて、今の秋広がどうしようもなく大切だったから、そんなもん知るかと茶化してやった。

 それから、約束をした。
 生まれ変わってからじゃない、今世での約束をした。
 おとなになったら、けっこんしよう。
 そう、約束を、した。

 だから朋幸は結婚しない。
 かといって勘違いしてはいけない。朋幸のそれは義務感でも、罪悪感や贖罪でもない。まったく違うといえば少々偽りが混ざってしまうけれど、それでも朋幸自身はそんな愁傷な想いで秋広に今尚執心しているわけではなくて、
 未だ過去になってはいないのだ。
 十年近くの歳月が流れてさえ、朋幸にとっては現在のことなのだ。
 秋広への想いは。
 結婚したいと思えないのだ。
 心動かされないのだ。
 異性として、特別なたった一人の、人生を共有したいと思える相手に、出会わなかったのだ。
 秋広以外に。

 秋広以外の誰をも、朋幸は欲しいと思えない。独占したいと思えない。ずっと傍にいたいと思えない。
 愛して欲しいと思えない。
 秋広以上に朋幸の心を動かす者など現れなかった。
 それをあえて馬鹿馬鹿しく滑稽に詩的な表現をするとすれば――朋幸の心は、凍ってしまったのだろう。

 あの冬の日に、朋幸の時間は止まってしまったのだ。
 秋広が死んだ、小学生最後の、冬の日に。


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Buck / Top / Next