「魔王てめぇこの野郎!!!」

 帰宅して第一声怒鳴りつけられて、何故か台所に立っていた魔王は最愛の相手に夜叉の如き形相で胸ぐらを掴み上げられながら眼を黒白させた。
 いかほどの力か、身長差によるものか、誇張抜きで二十センチ近く浮いている。足で宙を掻くがかすりもしない。
 が、魔王はそんな事さえもどうでもよくなるくらいに驚いた。

「朋幸、顔に怪我をしている。どうして」
「どーっでもっいいっ!」

 怒鳴りつけられた。

「ど、ど、どうでもよくないっ、朋幸が怪我して、しかも顔っ」
「んな事よりも指輪だ!」
「傷の手当のほうが先だ!」
「指輪!」
「怪我!!」
「二人共うっさい!」

 パパンッといい音が鳴って、二人の動きがぴたりと止まった。衝撃で手が離され開放された魔王が尻餅をつく。ティッシュ箱の底で二人を殴った張本人たる月代真李亜は、得物で肩を叩き腰に手を当てため息一つ。

「帰って早々何の騒ぎよ。って朋幸あんた顔の傷本当に結構深そうよ。もう血は止まってるみたいだけどスーツについてる」
「え? うわっヤバッ」

 流石に、いくら怒り心頭であってもスーツの汚れまでは看過できなかったらしい。白いブラウスとジャケットをまたぐようにべっとり赤黒い染みがこびりついているのを確認し、朋幸は音を立てて青ざめた。プレミアムウォッシュスーツ、購入価格三万四千九百円也。

「マリアマリアマリアッ、これ落ちるかな洗って落ちるかな血って落ちるかな」
「落ちないわね」
「だよなぁ!」

 うわぁん翠の馬鹿野郎あの背中蹴り飛ばしてやればよかった! ……なんて、泣き喚きつつ近くのテーブルへと倒れ伏す。せめて黒いスーツならばまだ目立たなかっただろうに、よりにもよって今日の朋幸が着ていた色はライトグレーだったものだから、広範囲に渡って飛び散った血痕がくっきりはっきり目立っている。これはもうどうしようもないわねぇ、と背後で真李亜。

「それで、相手は例の魔法使いくんなのね」
「うん」
「どうして俺を呼ばなかったんだ!」
「そんな事よりもだから指輪だテメェ魔王俺の指輪に何しやがった!」
「そんな事よりって! ……? 指輪? 何の話だ?」
「とぼけんな!」

 バネ仕掛けのように飛び上がると朋幸は再び魔王の胸ぐらを掴み上げ至近距離から睨め付ける。吐息が触れる距離で搾り出されるのは火が点きそうなほどの、低い、憤怒の声音。

「俺の、指輪に、何か、しただろう」
「お……憶えがない」
「あぁ?! ザッケんな! 翠に襲われた時にな、指輪が光って防いだり吸ったりなんかよくわかんねぇけどしてたんだぞ!! それで助かったしその事は礼を言うよありがとう!」
 けどなぁ! 怒鳴りつける声が震える。噛み締めた歯で何を飲み込んだのか、燃える双眸に痛みを走らせ朋幸は叫ぶ。

「なんで指輪にしたんだよ……! この指輪は、この、指輪はなあ! 俺の、俺と、あきひろの、約束の証なんだぞ……!」

 だいじなものなんだ。絞り出すようにして朋幸は言う。そうしないと声が出ないようだった。
 何せ、朋幸は泣いていた。
 大粒の涙がぼろぼろと止め処なく溢れて、零れて、それが魔王の頬に当たる。魔王は、ただただ目を見開いて硬直する他無い。

「こんなの、そりゃあ、ただの指輪に見えるだろうけどさぁ……! あ、あいつの形見とか、持って、ねぇから、さぁ! これが、この、指輪が、俺とあいつの、たったひとつの、証明なんだぞ……! あいしあってたって、一生、そばにいようって、思ったっていう、これだけが、その、証、なんだ! あきひろを愛してる、俺の、証明なんだ……!」

 友達としてじゃなくて、愛してたんだ! あいつのこと! 本当に、好きだったんだ……!
 喚く言葉はもはや魔王への怒責というよりも単なるうわ言になっている。溢れて止まらない涙の向こうの黒は、魔王を映していなかった。

「と、ともゆき……」
「愛してんだよ! あいつのこと! そんなの、どうせ、言葉じゃ伝わんねぇしっ、言葉だけじゃ、俺だって、馬鹿だからわ、わっかんねぇ、し! だから、だからぁ……」

 証なんだ。証明、なんだ。
 この愛は真実で、誠実で、間違いや勘違いなんかじゃ絶対に無いという、そういう、弁明のようなものなのだ。宣言のような、ものなのだ。
 この指輪は。
 朋幸にとっては必死なくらいに、愛の証、だったのだ。
 穢されたくない、唯一のものだったのだ。

「それを、テメェはッ」
「ま、待て、俺は本当に何も知らない!」

 振り上げられた拳に慌てて魔王は叫ぶ。必死の形相で、胸ぐらを掴み上げる手を握りしめた。

「嘘じゃない。本当に憶えがないんだ、信じてくれ、朋幸」
「……ッッ」

 一層顔を歪ませた朋幸は、しかし魔王の真摯な眼差しに、振り上げた拳はそのまま、数秒動きを止めた。何か、酷く葛藤しているのが揺れる瞳から伺える。
 ややあって、乱暴にではあるが朋幸は魔王を開放した。再び尻餅をついた魔王に背を向けて、朋幸は、固く左手を握りしめ、絞り出す。

「……悪ぃ、決めてかかって。動転してた」

 どうやら、魔王の訴えを信じたらしい。それでもまだ眦からは涙が幾筋も伝っていたが、何度も深呼吸をして落ち着けようとしている。

「いや……。……その指輪、見せてくれないか」
「…………」
「い、いやなら……いいんだけど……」

 ヘタれた魔王の眼前へ、ぶっきらぼうに左手が差し出された。振り向きすらしないのは魔王への怒りでは無く、怒りをぶつけた事と泣き顔を見せた気まずさ故にだろう。とにかく、じっくりと指輪を凝視した魔王は、しかしううんと首を傾げた。

「確かに、改めてよく見たら魔力が溜まってる……? なんでだろう」
「よくわからないんだけど、又吉さんとかわからないの?」

 提案はずっと一歩下がった位置から様子を見ていた真李亜だ。真偽の判らない揉め事には割入らない主義らしい真李亜の言葉に、魔王はこくりと頷いた。

「それもそうだな。呼んでくる」
「又吉さんいねぇの?」

 ぐずず、と鼻をすすりつつ朋幸。

「ベランダの箱の中にいるんだ」
「ペット禁止のアパートだって言ったら、じゃあ普段はそこにいるって。寒そうだったからスーパーでダンボールもらってきてクッション詰めたのよ」

 ふぅん、と相槌を打っている間にもう魔王はベランダへ向かっていて、ガラス戸を開けると何を言われるまでもなく黒猫が軽やかに箱から飛び出し魔王に抱き上げられて入って来た。

「っていうか、鍵は閉めていないし勝手に入って来られるはずだけど……」
「どうして助けてくれなかったんだ又吉」

 真李亜と魔王の問いかけに、猫又は肩をすくめるような仕草をして

「さて、奴ァ夜中はいつも外出しておりやしたから、真偽の程も判別できやせんし」
「胸ぐら掴まれて殴られそうになったのに……」
「その程度、魔王様にとっちゃァ危害どころか攻撃にすらなりやしないでしょうよ。覚え違いだけは勘弁願いてぇンで苦言をいたしておきやすが、奴はね、魔王様魔王様と傅いちゃァおりやすが、だからといって誰もが魔王様に傅き礼を尽くすべきだ、なんてぇ思想は持っちゃいねぇんですぜ。そうでなけりゃァ、いの一番にそちら様を食い殺しておりやしょうよ」

 そちら様、と視線で指されたのは朋幸だ。魔王は血相を変えて首を横に振る。

「朋幸を食い殺すなんて絶対にダメだ」
「で、ござんしょう? まぁだから、多少の揉め事程度で動くつもりもございやせん」
「うぅ……」

 今度は魔王が涙目だ。

「そんな事よりも、指輪を拝見させてもらっても?」
「あ、うん」

 はい、と嵌めたままの指輪を眼前へ持っていけば、すん、と又吉は鼻を鳴らす。

「ふぅむ……これは……。どうやら、魔力を吸収する性質は、この指輪が元から持っている能力のようだねぇ」
「指輪が、元から……? なんじゃそりゃ」
「とにかく、魔王様のお力じゃァござんせんよ。いや、考えてみれば、そもそも魔王様にはまだこんな器用な真似ァ出来っこねぇや」
「それをもっと早く言ってくれ……」
「物を大事にしていると、魂が宿ると申しやすからね」

 がっくりと肩を落とした魔王をガン無視して又吉は言う。

「あんた様が大事に大事にするものだから、その想いに報いたンじゃァありやせんかい」

 この指輪が。
 朋幸は指輪を凝視する。そうして、そっと飾り気のないそれを親指でなぞった。そうして改まって触れてみても、冷たいだけの、普通の指輪だ。今は光も纏っていない。ただLEDの明かりを反射するだけである。
 けれど、もしも又吉の言うとおりならば。
 まるで愛の力みたいで、嬉しい。
 自然、へにゃりと頬が緩む。
 ――唐突に、空気を入れ替えるようにして真李亜が数度手を叩いた。

「ほら、話がまとまったところで晩御飯の準備しちゃうわよ! エドガーだって待たせてるんだから、早くしましょ」
「エドガー? いないみたいだけど」
「上の部屋よ。用意ができてから呼ぼうと思って。今夜は鍋だから」

 マオにも手伝ってもらっていたのよ、と見やる先にはぶつ切りにされた野菜の山があって、なるほどだから魔王が台所にいたのかと朋幸は遅ればせながら納得した。その朋幸の頭を、真李亜がわしゃわしゃと子供にするみたいに撫で回す。

「朋幸、あんたはまず顔を洗ってきなさいな。あと着替え。ね?」

 詳しい話はその後よ。
 真李亜のそんな言葉で、この話はひとまず締めくくられたのだった。


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