その日の夜更け――
 草木も眠る丑三つ時に、魔王と又吉は朋幸の枕元に佇んでいた。

 床へ敷かれた予備の布団の上で、朋幸は頭まで掛け布団を被って丸くなっている。ミノムシのような寝方だ。息苦しくないんだろうか、と魔王は若干心配になった。蛇足だが、魔王が朋幸の寝相を見るのはこれが初めての事だったりする。一週間余りをその指輪の中で寝泊まりしていた魔王だが、指輪に入ると同時に意識を睡眠へと切り替えていたので、指輪に入って以降の外界の様子などまったく見ていなかったのである。真李亜には内心で、そういうところがヘタレなのよね、と肩をすくめられていそうだ。

 閑話休題。ともあれ初めて最愛の女性の寝顔――は、拝めていないが、寝相を拝見した魔王は、しかし、狼狽して又吉を見た。

「ど、どうするんだ。これ。指輪って朋幸したままだぞ。布団剥がすのか」
「必要ありやせんよ」

 そんな魔王を、やれやれと呆れ顔で引き留める。

「布団の上からでも、魔王様が意志を持って命じればそれで十分過ぎるくらいでさァ」
「そ、そ、そうか」

 じゃあ、やるぞ。緊張した面持ちで勢いづけるようにそう宣言し、魔王は右手を朋幸がくるまる布団の上へと翳した。
 しばし、そのまま時が過ぎる。
 静まり返ったリビングで、時計の針が刻む断続的な音と、電化製品の低い駆動音。それに、窓の外から時折微かに聞こえてくる車やバイクの走行音が、混ざり合いながら空白を埋めた。

 やがて、ぼんやりと、中空に影が浮かび上がる。
 影は滲むように色を持ち、端を明瞭にしてゆき、やがて十歳程度の少年を象った。人工色の茶髪に、のっぺりとした一重の双眸。楕円形の小顔に、骨筋張った貧相な身体。体格に余るTシャツと短パンを履いていて、それぐらいしか身に着けているものはない。

 否――
 左手の薬指に、貧相な細い指には不釣り合いなプラチナリングが煌めいていた。朋幸がしているのと同じ、装飾の無いシンプルな婚約指輪。
 にんまりと、笑う口から覗く前歯はがたがたに歪んでいる。

「よぅ、とうとう見つかっちまったか」
「ほ……本当にいた……」

 愕然と目を瞠る魔王。どうやら、半信半疑でやっていたらしい。対して又吉は平静そのもので、ふぅむと少年を値踏みし眺め、

「取り憑いている、といった様子でもありやせんね……。成る程、守護霊、とかいうやつかい」
「だいせーかい。ちなみに、オレが誰だかってのも、じゃあわかってんだろうなぁ」
「……あきひろ、だろう」

 大沢朋幸の想い人で、婚約者で、――死人だ。
 魔王の返答に、少年は半透明の体をゆすって、そのとーり、と笑った。

「四季の秋に広場の広で秋広だ。なんなら秋広お兄ちゃんって呼んでもいいぜ。弟なんざ欲しいと思ったことは一瞬たりとて無ぇけどな。血肉を分けた兄弟とか、ゾッとする」

 ……なんというか、
 秋広は、魔王や又吉の予想外の性格をしていた。
 かといって、じゃあどんな性格を予想していたのかと問われればそれはそれで答えに窮するのだけれど、少なくともこんな擦れまくった、尊大で、人を食ったような人物像では決して無い。
 口の端を歪めて笑う姿など、魔王よりもよほど魔王然としているではないか。
 何が守護霊だ、と魔王は吐き捨てる。こんな露悪的な笑い方をする守護霊がいてたまるものか。悪霊のほうがよっぽどお似合いだ。

「確かに、悪霊ってのも悪くなかったかもな。っつか、なってただろうなぁ相当凶悪な悪霊にさぁ――朋幸が、いなければ」

 魔王の眼が瞠られる。
 ……朋幸と、その名を呼ぶ声の、なんて甘やかなことか。なんて大切そうに、呼ぶのだろうか。
 その名前を。
 口にしながら、なんて愛おしげな眼差しを、するのだろうか。
 秋広は呟く。唄うように、独白するように

「朋幸がいなければ、オレが産まれた事は間違いでしかなかった。朋幸と出会わなければ、オレの生は呪いでしかなかった。朋幸に必要とされなければ、オレは災禍の種でしかなかった。朋幸に愛されなかったならば、オレは人にすらなれなかった」

 昨日も今日も明日も無く、心も壊れて、ただただ虚ろで、空っぽで。
 朋幸が現れなければ、ただの不幸の体現者として、がらんどうな身体で、何もないまま死んだだろう。そのからっぽの死骸に、良い器が出来たと歓喜して、世界のあらゆる悪意が巣食ったことだろう。そうして魂を真っ黒に染め上げて、禍いを撒き散らす化け物になっていたことだろう。
 そうして世界を滅ぼしたって構わなかった。
 朋幸が、いなければ。

「朋幸が見つけてくれたから、オレはオレになれたんだ。生きることが出来たんだ。だからオレはアイツを護る。この魂の全てを賭けて、オレは愛する女を護り続ける」

 ――朋幸がいてくれたから、悪霊なんかにならねぇよ。
 唇をひん曲げて笑う様はやはり凶悪だったけれど、瞳ばかりはきらきらと明るく眩く煌めいて、世界を祝福していた。
 朋幸が生きる世界を、祝福している。
 途方もない愛の深さに目眩がして、魔王はなんだか、手酷く傷つけられたような気になった。それが悔しくて、憎らしくて、顔を背ける。

「…………うるさい。なんだよ、俺の魔力を盗んでおいて、偉そうにするな」
「ひゃひゃひゃ、そりゃ悪かったって」

 悪びれた様子など皆無に秋広は笑う。笑って、だけど、と言葉を返した。

「それならオレも言わせてもらうけどな」

 すい、と魔王へ眼前まで顔を突きつけ、にんやりと唇をひん曲げて笑み、殊更ゆっくりと、手のひらで心臓を抉り出すように、秋広は言う。

「オレの魂の欠片から生まれたくせに、偉そうにするな」

 がちりと、音を立てて魔王が硬直した。
 血肉があれば蒼白になっていただろうその顔を見て、秋広はケラケラと声を上げる。

「なんだ、気づいてなかったのか。どこまでも間抜けだなぁ魔王なのに。オレはすぐに気づいたぞ。だから魔力を掠め取るなんて芸当ができたんじゃねぇか。それを使って、便利な能力も創れたぜ」

 バリアとエナジードレイン。
 シンプルだけどベストだろ? と、秋広はおどけて首を傾ける。

「感謝してるよ、そこのところはさ。っていうか、お前さ、指輪の中が居心地いいって思ったの、それが唯一オレと深く繋がりのある物質だからだぜ? たぶんだけどな。そりゃあ居心地いいだろうよ。オレの魂の欠片を使ってお前は生まれたんだから。往々にして欠片は本体を求める。それは子が親を求めるようなもんだ」

 お前はオレの、子供みたいなもんなんだよ。秋広はケラケラ笑いながらそう告げて、泳ぐように後ろへ距離を開いた。傷ついた顔をしている魔王を見やり、嘲笑うように言葉を続ける。

「DNA情報の代わりに魂の情報を引き継いでるんだから、そんなようなもんだろう? だったら母親は当然、朋幸だ。テメェは母親を独占したくて父親に張り合ってる、がきんちょだ」
「ちがう」

 咄嗟に魔王は叫んでいた。

「違わねぇよ」
「絶対に違う」

 にたにた笑うチュシャ猫のような顔を睨み付け、今度ははっきりと、迷い無く断言する。

「確かに、言われてみればお前とは他に無い繋がりを感じる。だから、俺に使われている魂の欠片というのは、お前のものなんだろう。だけど、だからこそ、」

 ――俺の、朋幸への想いは本物だ。

「お前の朋幸への想いが本物なのと同じだけ、俺の想いも、本物だ」
「いいや、テメェの想いには根拠が無い」

 朋幸に惚れた、過程が無い。
 断罪するように秋広は言う。その眼差しには、表情には、いつの間にか明らかな怒りが上っていた。

「そんなものを本物呼ばわりされたくねぇな。そりゃあオレの想いの、単なるコピーだ」

 ――生まれ変わってもお前に惚れる、なんて、確かにとんだ戯言だったぜ。
 なぁ朋幸、と触れられぬ手で布団を撫でる。

「オレとコイツは別物だ。オレはオレ一人だけだ。生まれ変わりなんて、んなもんただの他人じゃねぇか。そいつがお前に惚れたって、なんてことねぇ、ただただムカつくだけだったわ」

 オレってホント、バカだよなぁ。
 心底そう思っているのだろう、秋広は肺の中身を空っぽにするように深々と溜息を吐き出した。幽霊の身体で呼吸など必要無いだろうに、人間だった頃の名残だろうか。
 そして、いかにもうんざりと魔王を見やる。

「で? こんな話する為にオレのこと呼び出したわけじゃねぇんだろ? 本題は何だよ」
「な、じ、自分から始めた話題の癖に……」
「オレは別にこれで切り上げてもいいんだけどな。言いたい事言ってスッキリしたし?」
「うぐぐ……」

 完全に格付けが出来てしまっている。

「子供のくせに……」
「おいおい、見た目で判断するなよ精神生命体。オレは死んだ後、こうして朋幸の守護霊として魂の修行真っ最中だぜ? 生きて経験する以上の情報を得てんだ。精神年齢は実年齢以上だっつーの。だいたい、生前だけでカウントしたってテメェの方が年下だろうが」

 まったくもってその通りだったので魔王は押し黙った。

「いや黙んなよ。オレに言いたい事があって呼び出したんじゃねぇのかよ。マジで切り上げるぞ」
「…………朋幸、を」
「うん?」

 怯えるように躊躇いながら、けれど睨め上げる眼差しを負けるものかと引き絞り、魔王は、言おうと決めていた言葉を、射抜くような強い語気で言い放った。

「朋幸を、束縛するな」
「……うん?」

 秋広は理解できない言語で話しかけられたみたいに曖昧な笑顔で首を傾げた。そんな反応に魔王は一瞬怯んだけれど、拳を握ってなんとか踏ん張り、言葉を続ける。

「お、お前の約束が朋幸の心を縛り付けているんだろう。だから、朋幸は前を見れずに、ずっと、お前のことを、好き……なんじゃ、ないのか」

 だから、もう、朋幸を解放しろ。
 絞り出すように訴えた。網膜に焼き付いて離れないのは、朋幸の泣き顔だ。たかが指輪一つのことで、あんなにも取り乱していた朋幸の、泣きじゃくる顔。

「酷いと、思わないのか? ずっと、お前が死んでからずっと、誰も愛せず、過去に縛られてるんだぞ、朋幸は。だから」
「ぶふぉっ」

 ……一瞬と云わず、白っぽい間が空いた。
 ぱちりと秋広が両手で口を押さえる。けれど、肩や腹筋が辛そうにひくついているのがあからさまに見て取れて、
 秋広はあろうことか――笑っていた。
 ものすごく笑っていた。

「な、なっ、何が可笑しいんだ!!」
「いや、悪ぃ。わかってんだよ、お前が真剣な事とかちゃんと。うん、でも、やべぇ、ウケる」

 それだけ辛うじて言うとついには腹を抱えて爆笑しだしたものだから、魔王は拳を握って怒りに震えた。感情が荒れ狂いぐるぐると引っ掻き回されて、文句を言ってやりたいのに言葉にならない。だから端的に怒鳴った。

「フザけるなッ!!」
「フザけてんのはテメェだろうが」

 空気が凍る。
 地を這うような低い低い、静かな声音に気圧され魔王は息を飲んで今度こそ押し黙った。沸騰した怒りさえも凍らされる氷点下の罵声。
 秋広は、欠片も笑っていなかった。

「何を言い出すかと思えば、あぁ? オレが朋幸を縛り付けてる? だから朋幸が前を見ていない? テメェはいったい、その眼であいつの何を見てんだ? あ? 大沢朋幸って女はなぁ、束縛されるようなタマじゃねぇし、いつだって前しか、……否、現在しか見てねぇんだよ」

 秋広は言う。大切な物を貶された怒りと苛立ちをまっすぐに魔王へ向けて、拳で叩き伏せるように言葉を叩きつける。

「アイツはオレの死なんてとっくに乗り越えているし、オレの愛に報いようとか、そんな殊勝なことは微塵も考えてねぇよ。っつか、思いつきもしねぇよんな事は。あいつはな、もっと、解り難いくらいに分かりやすい奴なんだよ」

 そこまで言って、秋広は疲れたように、激情を鎮めるように、長く息を吐きだしてから斜めに魔王を見やった。
 魔王は、秋広の言葉が理解できずに狼狽えていた。そんな筈はないと首を左右に振る。

「そんなの、だって、朋幸はあんなに泣いてて」
「アイツは感情が昂ぶるとすぐに泣く」

 泣き虫なんだよアイツ。なんて断言されて、ますます混乱してしまう。泣き虫なんて、気の強い朋幸にはまったく似合わない単語だ。

「疑うならマリアにでも訊いてみろよ。っつか、泣かしたのお前だろ。何オレのせいみたいな言い方してんだよアホか」

「お、お、お前のせいだろ!? 俺は何もしていない!!」
「ん? ……あぁ、そういやそうか。悪ぃ間違えた」

 あっさり謝られてもそれはそれで困る。こういうところは、魔王にとっては癪だが、朋幸によく似通っていた。どちらがどちらに影響したのかは分からないが、きっと、互いに影響しあっているのだろう。そう考えてみれば秋広の感情の表し方や表情の作り方も朋幸と重なるところがある。

「(朋幸はコイツみたいに意地悪くないけど)」
「意地が悪くて悪かったな。生憎オレは育ちが悪ぃんだよ」

 さらっと心を読まれた。

「幽霊相手に隠し事が出来ると思うなよ。そういうのが通用するのは肉体を持ってる連中相手だけだからな。まぁ、それはともかくとして、朋幸の話だけどな」

 腕を組み、あぐらをかいて、クラゲみたいに中空をふよふよ浮かびつつ秋広は言う。いつのまにやら怒りはどこかへ行ってしまったようで、感情が長続きしないあたりも朋幸とよく似通っていた。

「愛ってのは、そもそも一方通行な、自己満足だ」

 唐突にそんな事を言い出す。

「例えばテメェは朋幸を愛しているんだろう。朋幸に愛されていなくても、な。それともテメェは朋幸が愛し返してくれないなら愛するのをスッパリと止めちまえるのか?」
「嫌だ。そんなのは無理だ」
「……即答か。まぁそうじゃなければ泣かしてるところだ」

 さらりと怖いことを言われた。魔王の顔がひきりと強張る。

「じゃあ続いて、お前は朋幸が死んだら、スッパリ想いを捨てて次の相手を探すのか」
「そんなわけがないだろう!!」

 怒声に、秋広はふんと鼻を鳴らした。

「つまりそういう理屈だ。相手が死んでいようが死んでいまいが、愛しいもんは愛しいんだよ。感情なんてもんは当人の意志でカチカチ切り替えられねぇんだ。それを他人が強要出来るかよ。出来るのは外っかわの、見せかけだけだろうが」

 ――アイツはオレが、オレの事なんざ忘れろと言ったって聞きゃしねぇよ。

「愛する対象が死ねば、普通は時間の流れが想いを風化させて、過去にする。っつか、互いに生きててもそうなるな。同じであり続けるもんなんて無ぇ。オレは今も朋幸を愛しているけれど、この感情は死ぬ前と今とじゃやっぱり全然違ぇよ」

 ぐるり、中空で反転し、秋広は天井へ足をつけるようにして逆さまに佇立した。魔王を見上げて見下ろし、肩をすくめる。

「ぶっちゃけると、朋幸がこんな、いつまでもオレを愛してるとは思わなかった。たとえオレが生きていたとしても、いつか気持ちが離れて、こいつはどっかに行っちまうって、勝手にそう思い込んでたよ」

 ――そんな未来を予感した上で、たとえコイツが離れていっても、それでも、
 ――コイツが幸せならそれでいいと思えるくらいに、オレは朋幸を愛してるんだ。
 ……なんて、どうって事無い口調で言う。
 幸福そうにさえ見える穏やかな表情で小さく笑う。

「諦めんのは慣れてっしな。だけどコイツは見ての通りオレに惚れっぱなしだ。それがなぜかというとな、まぁ、単純な話だよ。オレ以上にいい男がコイツの前に現れていないだけだ」

 ……しばし、沈黙が落ちた。
 今までで一番長く白い空白がのっぺりと横たわる。
 ややあって、

「……はぁ?」

 なんとかそれだけ、魔王は言葉を発することが出来た。
 イイオトコとか、自分で言うか。
 ガキの癖に。

「ベイビーに言われたくねぇよ」

 んべぇ、と小バカにした態度で舌を出す。

「事実なんだからしょうがねぇだろ。朋幸が新しい恋をしないのは、テメェら生きてる男が役不足だからだよ」

 重ねてそう言い捨て、秋広は天井を蹴るような動作をすると再びふわふわ中空を漂い始めた。

「朋幸の心を問答無用で掻っ攫うような奴が現れれば、オレへの愛なんてあっという間に過去になるだろうさ。だから、テメェの魅力が足りなくて朋幸を振り向かせられないだけだっつーのに、それをオレのせいにされてもどうしようもねぇっつの」

 八つ当たりも大概にしろ馬鹿野郎。
 秋広はふよふよ漂った末に最初の位置体勢へ戻ると、魔王を睥睨しつつそうバッサリ切り捨てて、

「死者が生者を縛っちまったら、それこそ悪霊じゃねぇか。んな惨めったらしい真似誰がするかよ、格好悪ぃ。オレは、守護霊として、愛する女を護り続けるだけだ。それ以外の干渉なんてする気は無ぇし、朋幸がオレを忘れたって、朋幸の幸福を邪魔するつもりは無ぇんだよ」

 ――朋幸がオレを勝手に愛し続けているように、オレも勝手に朋幸を愛し続けるだけだ。
 そう言い切る秋広は誇らしげで、その眼差しは目眩がするほど強い信念で輝いていて、
 その笑顔の気高さに、途方も無い想いの深さに、
 ……魔王は何も、言えなかった。



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Buck / Top / Next