朝起きたら魔王がなんだかブルーだった。

 ブルー、といっても色が変わっていたわけではなくて、目に見えて落ち込んでいるのだ。朝の支度をして朝食を食べ終えたあたりでその事に気がついた朋幸は、いったいどうしたのだろう、と首を傾げた。昨夜指輪の中で寝られなかったことがそんなにショックだったのだろうか。なんて見当違いな事を思う。

「……又吉さん、魔王なんかあったの?」
「えぇ、まぁ、色々と」

 TVの前を三角座りで陣取り時折と云うには結構な頻度で溜息を吐き出す魔王を見つつそんなことを訊いてみたが言葉を濁されたのでほうっておくことにした。

「……おい、マリア」
「何よマオ。つけてるだけならTV消してくれる?」
「つけてるだけじゃないちゃんと観てる。朋幸って泣き虫なのか」
「はぁ? まぁ、そうね。昔っから結構よく泣くわよ。それがどうかしたの?」
「いや……」

 なんて、真李亜にわけの分からない質問をしているのも、だから朋幸は無視しておいた。
 ところで本日は土曜日だ。習慣で普段通りの時間に起きたけれど特に予定があるわけでもなく、暇を持て余した二人は真李亜が出してきた旅行誌を開いてああだこうだと花を咲かせ始め、
 時刻が十時半を回った頃にチャイムが鳴った。
 エドガーかしら、と真李亜が立ち上がりモニターを確認して、朋幸を振り返る。

「ねぇ、以前言ってた魔女の、女の子の方って、高校生くらいって言ってたっけ?」
「うん? うん、そうだよ」
「……もしかしてこの子じゃない?」
「は?」

 確認したら確かにそれは桜花というあの魔女だった。もっとも服装だけは華やかだった前回と違い、スーツ風の焦げ茶色のジャケットをトップにきちんとボタンも留めて、中には襟口に皺が寄るようデザインされたカットソーを着、下はタータンチェック柄の赤いミニスカートと黒いニーハイに革靴という、随分大人しめの格好だったが。

 何故足元まで分かるのかといえば話があると言う彼女に誘い出されて、近くの公園にいるからである。隣には魔王と又吉も同行している。真李亜の事はエドガーに任せて来た。しかし考えてみれば、翠に襲撃され、叶とお茶をし、こうして桜花との話し合いの場所に選ばれて、随分とまぁ魔女に縁がある公園だ。なんて、歩きながら朋幸はぼんやりと思う。
 公園の中程へたどり着くと、桜花は朋幸らへ丁寧なお辞儀をした。

「突然の誘いに応じてくださり、ありがとうございます。昨日はまた私共の仲間が勝手をしたようで、申し訳ございません」
「いや……まぁ、別にいいんだけど。アイツ大丈夫だったか?」

 指輪に魔力を根こそぎ奪われて辛そうに帰っていったが。
 朋幸の問いに、桜花は苦笑をこぼした。

「えぇ、大事は無く」
「そうか、よかった」
「丁度いいお灸になりました」

 にっこり、花もほころぶ笑顔からは桜花達も翠の事は持て余していたらしいという事情が十分すぎるほどに伺えた。ので、朋幸はこの件に関しては気にしない事を心に決めた。

「それで、用件って?」
「はい」

 肯いて、桜花は肩にかけていた手提げ袋から書状を二枚取り出した。頑丈で高級そうな素材の、A4より少し大きいサイズの白い紙で、縁にそって金色の装飾が踊っている。なんとなく、朋幸は真李亜がストーカーから贈られていたあのカードを思い出して眉根を寄せた。

「それ何?」
「誓約書です。魔女協会から発行される正式な公的効力を持つ最上位の書類で、既に私共側の印は押してあります。あとは此方に魔王様、又吉様、朋幸様のサインをいただければ、以降私共魔女協会ならびにその関係者各位は、貴女方がこの誓約書に反した場合を除き貴女方に危害を加えることが出来なくなります」
「はぁ……?」

 予想外の申し出に、思わず間抜けな声が出た。が、桜花は構わず解説を続ける。

「私共の側から貴女方に誓っていただきたい内容を簡潔にまとめますと、魔王様は人間を始めとする知的生命体に深く干渉せずその役割を御果たし下さい。又吉様は魔王様が約束を違えぬようお導きください。朋幸様は、何者からの要求があったとしても、決して、魔王様に能力の使用を求める、或いは命じることを、決して、なさらないで下さい。――以上になります」

 なんだそれは。なんだ、それは?

「詳しい内容は此方の書面に眼を通して」
「そんな事はどうだっていい」

 怒りの濃い声で遮った。その怒りを眼差しにも同様に込めて睨みつけるが、しかし桜花は困惑した様子すらも見せずに顔を上げて朋幸を見返す。
 朋幸は、一層強く桜花を睨み据えた。

「魔王とか、誓約とか、違うだろ。なんだよそれ。そういうスケールのでかい話なんて俺ら知らねぇよ。俺達は、翠って奴に、マリアをストーカーすんのやめて欲しいだけだ」
「……そうですか」

 叶の話していた通りのようですね、と、桜花は一度目を伏せてから、なんだか申し訳なさそうな顔になる。そうしてしかし、

「翠は、マリアさんのストーカーではありません」

 きっぱりと、強い口調でそう告げた。
 朋幸は眉間の皺を深くする。

「はぁ? 何言ってんだ今更」
「そうですね、もっと早くに気づいてお話するべきでした」

 申し訳ございません。桜花は深々と頭を下げ、

「ですが、違うものは違うのです」

 屹然と、断言した。

「込み入った時に誤解させるような行動をとってしまったことは謝罪します。が、翠はストーカーではありません」
「な……なんで、そんな事言い切れるんだよ。だってアイツ部屋の番号とか知ってて」
「調べたのは私と叶です。いえ、調べたとも言えませんね。私達は、ただ魔王を見張っていただけで、魔王が明確な意志を持って接触した朋幸様と、その場にいたエドガーさんの部屋の番号も、その後帰宅された時に確認しただけなのですから」
「じゃあ翠は」
「翠にはそういう、なんというか、忍耐は、無いんです」

 はふぅ、と桜花は頭痛を抑えるように片手を額へやって、疲労の濃い溜息を吐き出した。そうして重い口を義務感でなんとか開くように、至極言い難そうに言葉を続ける。

「あの日も、本来は貴女方との接触は持たず、一週間ほど様子見の為に貼りこむ予定だったのですが……翠が、独断専行してしまいまして……。翠に張り込みなんて出来るはずが無かったのに、私共の人選ミスです。本当に、申し訳ありませんでした」

 再び深く頭を下げられて、朋幸は、とうとう混乱した。ずっと、翠こそがストーカー犯だと決めてかかっていたのに、今更違うだなんて云われても、
 じゃあ、真犯人はいったいどこにいる?

「一つ、確認したいことがあんだが、よろしいですかぃ?」

 不意に割り入った声に二人の視線が足元へと集まった。
 又吉は二人の意識が自分に向いたのを確認し頷いてから、魔王様、と促した。促された魔王はズボンのポケットから一枚のカードを取り出して見せる。
 それは、ストーカーから贈られてきたカードのうちの一枚だった。書かれている言葉は【貴女の隣には私こそが相応しい】……贈られてきた、最後のカードだ。
 又吉に眼線で促され桜花はそれを手に取る。

「そのカードに、妙な部分はありやせんかぃ?」
「……これは、魔女の作った物ですね」
「って、じゃあやっぱり」
「いえ、翠ではありません」

 きっぱり否定してから、桜花は改めて、まじまじとカードを凝視した。

「惑わしの蝶に、呪いの黒百合。周囲の装飾は魔法を補助するもの……」

 あぁ、と、
 桜花が苦く息を吐いた。一度唇を強く噛み、朋幸らを見上げる。その眼差しは真剣そのもので、濃い焦りの色があった。

「犯人が誰だか、わかりました」
「本当か!? すごいなお前。それで、誰なんだ?」
「エドガーさんです」

 躊躇も無く、言い切られた名前に朋幸の動きが止まる。
 三呼吸ほど間が開いて、それでも告げられた言葉の意味が理解できずに、朋幸は曖昧な笑顔で首を傾げた。

「……何言ってんだ? エドガー? エドガーが、何だって?」
「エドガーさんは、魔女なんです」

 桜花は言い難そうに、けれど心なし早口で告げる。

「魔女協会に名簿登録されている、れっきとした、魔女なんです。人形師のエドガーといえば、知る人ぞ知る優れた魔女なんです。私たちは縁がなくて、調べるまでは知らなかったんですが」
「ちょ、ちょ、待ってくれ」

 朋幸は――やはり、混乱していた。
 桜花の言っていることが理解できない。

「エドガーが、魔女? だってあいつんなこと一言も言ってなかったぞ? 勘違いじゃ」
「いえ、間違いではありません。協会のデータと照合し、太鼓判を押されています。エドガーさんが魔女だったからこそ、私達協会側は朋幸様方が隠れ魔女で、魔王を唆し、その能力を悪用しようとしているのではないかと推測を立て、探っていたんです。もっともそういった疑いはまったくの杞憂であると私と叶は判断し、そう上部に報告し、結果、こうして手出し無用、無害であるという証の書類が用意されたわけですが……」
「だとしても! そう、エドガーが魔女だとしても、だからって犯人がエドガーって事には」
「では、他に誰かいますか?」

 朋幸の主張を桜花は半ば怒鳴るように遮った。

「だって、私たちはずっと貴女方を見張っていましたが、ストーカーなんて見かけませんでしたよ? 貴女方に対し不審な行為を働くものを、まさか見逃すとでも? そういう者を探すこともひっくるめて、私達の仕事だというのに?」
「それは……」
「ストーカーなんていなかったんです。私達が張込みだしてからは、ストーカーは行為をやめていた。それは、何故でしょう? それは、そんなことをする必要がなくなったからではありませんか? ストーカーなんてしなくても、マリアさんに近づけるようになったからではありませんか?」

 だとしたら、容疑者は――一人だけだ。

「エドガーが……犯人?」

 だとしたら、
 だとしたら……!

「ヤバい、今マリアとエドガー二人っきりだ!!」
「だから焦ってるんですよ!! もう!!」

 気づくの遅すぎます! 桜花の怒声を聞きもせず、朋幸は既に駆け出していた。



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