『なぁんかーぁ、荷物を奪い返されたみったいっだよーう? 護り屋さんがー来たみたーいでーさーぁ、路地裏をー、とーぼーちゅー。あー、今俺様キューブで追跡ちゅーねーぇ』

 狭い車内に間延びした声が響く。音源は助手席に置かれたスマートフォンで、機械を通して拡声されたそれは薄く延ばされ歪んでいたが電気信号に変換されても元の音声が少年のものであるとうかがえる。依頼先の組織が別口で雇った何でも屋は随分と歳が若いらしい。推測するところ15かそこらか。細長い体躯を背凭れへ存分に沈めて男は自分がその年齢の頃に何をしていたか、ぼんやりと記憶をたどってみた。確か…………あぁ、そうだ、親の遺産で引き篭もりのニートをやっていた頃合だ。
 あの頃はよかったなぁ、最近の若者は随分と精勤なんだなぁと、駄目な大人の見本みたいなことを思いつつも億劫そうにエンジンのキーを回した。

「ラジャ。まー、何だ、予定通り仕事してくれ」

 しゃべることも面倒くさい、とでも言外に愚痴ってでもいるような何ともやる気の無い声で応じてからスマートフォンへ手を伸ばす。骨ばった手が掴むと同じ頃に『はぁーい』というあまりにも対照的に明るい返事が返ってきて、男がのろのろと操作をしているあいだに向こう側が通話を切った。
 此方も画面をトップに戻せば、用は済んだとばかりに助手席へぺいっと放る。はぁああ〜……と、何も考えずに肺の中の空気を音にしたような溜め息を垂れ流してハンドルへ額を乗せた。

「ぁあ〜ああぁ……マジかったりーぃ帰りてぇよー雨降ってっしさーもーマジだっりぃ……」

 ――――他人には仕事をしてくれと言っておいて何を言っているのか、である。
 ベルフェゴールという名前を持つその男は、ぎょろりとでかいばかりで死んだ魚のようにおよそ生気と呼べそうな輝きが見うけられない黒茶色の瞳にフロントガラス越しの街並を映した。つい先ほどから降り出した雨は街灯に照らし出され無数の細い線で上下の闇を繋いでいる。土砂降りというわけではないが、小雨と呼ぶには多そうな、何とも中途半端な雨量だ。ひとたび車外へ出れば湿気で折角セットした髪型が台無しになるだろう。しかも服だって汚れる。下ろし立てなのに。考えるだにやる気がどんどん削がれて平らどころか穴まで空きそうだ。もっとも、元々この男に”やる気”などというものが存在しているのか甚だ疑問だが。
 後部座席の半分を埋めるキャリーバックの中身を思う。先週入手したばかりの89式5.56mm小銃、自衛隊からの横流し品で手に入れるのに苦労した一品だ。小雨程度で動作不良を起こすような舐めた構造ではないけれど、初戦がこれじゃあむくれたくもなる。

「あー…………、かったりぃ」

 だらん、と額はハンドルに載せたまま両腕だけをたらして言う。言うけれども、ベルフェゴールだってぼやいていても仕方が無いことは承知しているのだ。あぁまったく、子供から荷物を奪って運ぶだけの簡単な仕事内容で、天気予報が今夜は晴れだと言うから引き受けたのに、たったの40万円ぽっちじゃあ安すぎだ。小遣い稼ぎ程度のつもりだったのに、まったくついていない。
 はぁぁ……、と、何もかも放り投げて帰りたくなる気持ちを空気と一緒に追い出した。今月はコイツを買うのにかなりの額を使ったから残高がヤバい。それに、一度は引き受けてしまった仕事だ。契約違反は違約金を払わないといけないし、評判が下がると食い扶持に困る。あぁ、生きるって面倒臭い。でも生きているからしょうがない。

「あー……、じゃぁ、まぁ、出すから」
「安全運転してよね」

 言葉は後部座席の残り半分に腰かける奪い屋へ。すかさず返事が返ってきたけれど面倒くさいので聞こえないフリをした。
 依頼人が別口で雇った女の名前は遊璃=スヴェトラーナ・ガラノフ。ベルフェゴールが今回護る相手で、単体での戦闘は出来ないと聞いている。戦えない者を護るのは面倒臭い。面倒くさい仕事は憂鬱だが、浪費と無駄遣いと趣味の為には仕方が無い。それが現実というものだ。現実は面倒臭い。

 ギアを変える。惰情な声からは予想もしない乱雑な動作にガチチッとシフトノブが壊れそうな音で泣き、板でも踏み抜くのかという勢いで革靴がアクセルを踏み潰した。甲高い音でタイヤが嘶き宵闇を切り裂く。ぐっとGが掛かって全身が後方へ引きずられる。ところどころにしか街灯の灯らない濃厚な闇に沈んだ街並をかっ飛ばしながら、ベルフェゴールは静かに微笑んだ。へらりと歪んだ口元は、成る程悪魔の名に相応しい。
 黒茶色の瞳が、幕開ける狩りへの愉悦で確かに鈍く輝いていた。
 










 しとしとしとしと、細く天から線をひくようにして雨が降る。温暖な気候の土地特有の、湿気がまとわりつく愚痴のような雨だ。ベーラレシラムが泣いている。小さな背中を決して見失わないよう追いかけながらも遠く彼方へ向いた少しの意識が呟いた。ベーラレシラムが泣いている。あの妖精はいつも泣いている。嘆きさ迷い雨を降らせる。だからこんな日は誰もが憂鬱な気分に沈むのだ。

 蛇の食道のように細く長い路地裏は迷路のように入り組んでいるけれど、先行する少年はさほど迷う様子も見せずにどんどん進んで行く。運び屋の看板を掲げているのであるからこれぐらいは出来て然るべきではあろうけれども、10に届くかという彼の年齢を鑑みれば随分と将来有望そうではないだろうか。
 宮部佐太郎。髪は天然のままだし、装飾品の類いも身に付けていない、質素で純朴そうな和装の少年だ。どこにでもいるようで今時希少なほどの、ごくごく平凡な男の子。道ですれ違っても彼が運び屋などというアングラな職種の人間だとは誰も思いもしないだろう。……もっとも、だからこそ白羽の矢が立ったのだろうけれど。

 足早に進む道と交差したわき道で気配が揺れる。何か大きなものを刻む音が何度も何度も聞こえてくる。始末屋あたりの後片付けに来た掃除屋か。居合わせる、と言うほど近い距離でもないが、この路地裏に入ってから仕事屋の気配を感じたのはこれで3度目になる。

 ――この街の闇は、濃い。
 生臭さの混じりだした空気を吸いながら思う。こんな月明かりもない夜は日陰者にとって活動するに都合が良いから、余計にそう思うのかもしれない。雨が臭いを流してくれるから、こんな日は雨雲の上でたくさんの星が流れて落ちる。

 この街は、……この、過去には日本という島国の一部であった小国は、闇が練り固まったようなところだと訪れる度に思う。
 世界のどこよりも平和な国のなかで独立した、存在を秘匿されている国。物語の中にある白霧に閉ざされた城のように、日向を当たり前に生きている者達ならば都市伝説や噂でしか名前を聞かない、そんな国。


 和国。


 法も倫理も道徳も、正常に機能することを放棄していることを揶揄ってこの国はそう呼ばれている。命のやり取りを飯の種にする非合法な者達の掃き溜めの、殺し殺されることに疑問も抱かぬ生きながら死んでいる亡者達が踊るカタコンベ。
 この国に拠点を置く仕事屋は多い。その中には宮部佐太郎のような少年もいれば、殺しが日常になっているような者達もいる。むしろ後者の方が多いだろう。それに、ときには仕事とはまったく関係無く襲ってくる殺人鬼だって潜んでいる。
 この街の全てがいまや彼女の敵であり、つまりは彼女の中のミノタウロスへ捧げられる供物だ。この街のあらゆる脅威から宮部佐太郎という宝を護り、飢えた化物の腹を満たしてやらなければ。

 さぁさぁと雨が降る。雨が街を覆い隠す。闇で隠された街の影間で、兎のように用心深くラビラントは耳を澄まし目を凝らし鼻を利かせる。
 生臭い潮の匂いが濃くなってきた。

 アリアドネの指定した運搬の最終地点はこの先にある波止場の、コンテナのジャングルを抜けた奥にある岸陸だ。そこに待機している運び屋と護り屋へ荷物を渡し仕事の引き継ぎをすれば宮部佐太郎の仕事は完了する。その後は引き継いだ運び屋達が海路を渡り、彼女がいる国の排他的経済空域内にある島へ上陸して、そこでまた荷物の受け渡しを行うだろう。あとは部下が空路を使いアリアドネの元へ宝を届ける、という手筈だ。

 建物が途切れる。影に身を潜めたまま窺う外は広い道だ。あと何時間かして東の空が明るみ始めれば大型トラックが何台もここを行き交うだろう。道の片側にしかない街灯が、等間隔に広く間を開けてオレンジ色の光でその足元だけを照らし、闇を余計に濃く演出している。遠く見える波止場へと到る高いフェンスは閉まっているようだった。

 ざっと視線を走らせて、近くに車や人影がないことを確認してからそっと唇を開いて宮部佐太郎を見る。

「襲われるなら、ここだから。もし車が来ても構わずフェンスまで走って。攻撃を受けたときは私の傍を離れないで」
「うん」

 強く少年が首肯する。仕事に対する使命感の燃える瞳。

「先に私が出るわ。二歩進んだら貴方も走って。貴方の一歩後ろにつくよう調整するけれど、気にせず全力で走ってね」
「分かった」

 その手がしっかりと荷を握っていることを確認し、まずはラビが駆けた。ぱしゃりと靴裏で泥水がはねる。続いて飛び出した少年の歩幅に合わせて速度を落とし一歩後ろへ。500mはあるだろう距離を二つの影が駆け抜ける。
 くすり、と、闇のなかで誰かが笑う声がした。


「だーるまさんがーこーろんだーぁ!」
『!?』


 雨音を突き破って届いた声。幼さを残すアルトは進行方向から。二人の足が止まる。闇がゆらりと動いて、そこに人が現れた。くるりと片足を軸に反転しこちらを向く。距離は二人とフェンスを繋ぐ直線のちょうど中程か。街灯の明かりも届かないその場所で、影色で塗られた青年が無邪気な顔でにこーっと笑った。陰に沈んだ真っ黒い笑顔。背中に背負っているのは…………箱?
 青年の両手は背負う箱のベルトをつかんでいる。頭上で雨を弾いている蝙蝠傘は箱から延び出ているのだろうか。その傘で闇と同化して道路に座り二人を待ち伏せていたのだろう。
 奪い屋か、始末屋か、何でも屋か。いずれにせよ味方ということはなさそうだ。

「とーぉせーんぼーぉ! ココはつーこー止めでーぇすー他もつーこー止めでーぇす!」

 無垢に無邪気に楽しげに、青年はきゃっきゃと笑ってそう告げた。併せて両手両足も左右に開き”とうせんぼ”のポーズ。……やはり協力者では無いらしい。ということはすなわち、迷宮への供物ということだ。
 ミノタウロスの嘶きが頭蓋の内で反響する。その音色に紅茶色の瞳が酩酊しとろりと輝いた。鞘の先がカツンと地面に触れる。柄に、手をかけた。

「あーぁ! 無理矢理とーる気だねーぇ? そーはいーっかなーっいぞーぉ!!!」

 蹴鞠が跳ねるようにぽんぽんと妙な拍子をつけて青年が声を張り上げる。両手がそれぞれベルトを掴んで、ぐいと一気に肩から外した。地面へ落ちるかと思われた箱は中空で左手に引き上げられその最中に――ばらばらに壊れた。

 否、

「!!?」

 分解した陰影が見る見るうちに質量を増して繋がってゆく。瞬きをする間に倍ほどへ。いったい何が起きているのかと、把握に努めた脳は数秒ばかり動作を止めた。その致命的な空白の間に膨れ上がった影が青年の等身さえも追い越してゆく。あのフォルムは……人?
 そう、人、だ。四角い頭に細い腕、顔と同じ太さの胴体から地面へ伸びる二本の足。太かったり細かったり丸かったり角ばっていたりする、そんなひとがたの”何か”が気がつけば完成していた。その向こうに立つ青年よりも一回り半は確実に大きい。本当に彼が背負っていたあの箱と同じものなのかと今見た事実を疑いたくなりそうなほどあからさまに大きすぎる。質量保存の法則はいったい何処へいったのか。
 開いた口も閉じぬまま、2人は青年がその何かにひらりとよじ上るのさえ見守ってしまった。

「がーぁーおーぅ!!!!」

 のんきな咆哮に呼応しひとがたが両腕を振り上げる。いったいぜんたいどういう仕組みになっているというのかアレは青年の命令(?)に従い動くらしい。頭部な箱がぱかりと割れて、まるで一緒に天高く吠えているようだ。
 呆然と、唖然と、愕然と、紅茶色の瞳が瞠られる。隣で宮部佐太郎が息を飲みこむ音をがしてラビもまた息を呑んでいたことに気がつく。あぁ、あれはまさしく……

「……ロボット」

 そう、そうだ、ロボットだ。創作の中かTVの中でしか見たことの無い、ロボットが目の前にいる。敵として立ちふさがっている。
 他者の作中へ唐突に踏み込んでしまったかのような倒錯。起きながらにして夢を見せられているように現実感を剥離されて、叩き伸ばされ薄くなったその上に立たされた舞姫は突然反転した舞台と演出と脚本に成す統べもなく立ち尽くすしかない。BGMはいつの間にクラシック・バレエからテクノ・ポップへと切り替わっていたのか、アップテンポでいてコミカルなその曲にバレリーナの居場所など何処にも無かった。
 舞台を奪った新参者へまじまじと視線を注ぎ続けていたラビラントの薄い唇が開かれる。

「――――素敵……!」

 興奮の滲む恍惚の吐息。恋情に酔いしれる乙女のようにその瞳はとろりと甘く輝いて、もはやその手は得物を握っていない。あろうことか、舞姫は己の役割も忘れて新参者に魅入っていた。彼女は今、主演から観客へと転じてしまったのだ。
 だから、異音に気づくのが遅れた。

 アスファルトとゴムが高速で擦れる甲高い音音音音。打ち破られる幻想世界。無粋な鉄の化物が、闇夜を切り裂き突っ込んできた。




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