ペーラレイムの吐息が聞こえる。

 すん、と、彼女は鼻を鳴らした。ペーラレイムは水の妖精だから、その吐息は水っぽい。瑞々しいと言うには生ぬるいその吐息が路上の埃や塵を巻き上げ巻き込み不愉快にゆるゆると、墓場から這い出てきた亡者達が行進する程度の歩調でビル間を流れていく。彼女の真っ白い肌と蜜柑よりも鮮やかな橙色の髪を撫でながら、灰色の空へと流れてゆく。

「もうじき此処へも、ペーラレイムがやってくるわね」

 汚れたネオンを細く暗い通路の、濃い影の中から視界に映し彼女は囁く。隣でスーツ姿の男がちらりと黒い瞳を向けたけれど、誰何はせず肩を竦めて手元のiPadへ眼差しを戻した。

「”白兎”がいるのは目の前のビルの、1つ奥にあるビルです。一階の出入り口は向かいの建物に挟まれて空間が無くなり使えなくなっているようですね。二階に繋がる非常階段からしか出入りできないようになっているようです。パイプをつたえば屋上との行き来も出来そうですが……三方向をビルに囲まれていますからね。隙間はどこも細身の成人女性が一人、通れるかどうかといった具合です」

 男が操作している画面には線画だけのビルが黒い背景に蛍光緑で描かれている。3Dらしく、タッチパネル操作でそれはくるくると向きを変えた。

「ビルは二階建てで、周りのビルに埋もれてるなぁ。非常階段がある側にも窓はあるけれど小さいのが一枚だけで、ブラインドが降ろしてあるから狙撃でのサポートは難しいか……。やれやれ、貧民窟は違法建築が多くて参るな。すぐそこは風俗街で人目が多いし……派手なことは出来ませんよ」
「お菓子の数は?」
「4つです。全員おはじき付き。中は狭いですし、少し厄介かな」
「そう……」

 路地の先へ眼差しを向ける。紅茶をとろかして作ったような赤茶色をした瞳で遠くを見つめる。紫や黄色やオレンジや赤色がまざったり入れ替わったりして灰色の道と壁を照らしている、その先を見る。薄桜色のタータンチェック柄をした分厚い布の塊を腕に抱いて、長方形にそれを纏める朱紐の結び目にぶらさがるクマやウサギのマスコットの1つへ赤い唇を触れさせてから彼女は言った。

「ハートの女王様はバレエをお望みなの。ジゼルを踊って、ローズマリーの小枝を贈って差し上げなさいと、そう仰せになられたわ」

 ショートブーツがコンクリートの地面を踏む。カツン、コツン。生ぬるい夜風が後ろへ流れる。あぁ、じきにペーラレイムがやってくるわ。吐息だけで囁いた彼女は、カツンコツンと影を踏む。

「だから、私は踊るの。ミノタウロスがお腹をすかせているわ。そうね、早く財宝を取り戻さないと、いけないわね」

 背後で男の零した溜め息が聞こえた。

「わかりました。では作戦はそのように」

 振り返れば男は笑っていた。濃い影の中に取り残されて、IPadを小脇に抱えながらサングラスの奥で苦笑していた。

「我々はいつもどおり、舞台を整えつつがなく進行させますので、主演はどうか心置きなく、最後までダンスを、”ウィリ”」
「えぇ、お願いね黒子さん」

 演目は『ジゼル』だけれど、この舞台に村娘のジゼルは登場しない。舞台の上で踊るのは名も無き一人のウィリと、化物と、彼女に魅入られた哀れな犠牲者達だ。
 カツンコツン、ショートブーツがネオンサインの光を踏む。行き交う人の中、見上げた空は雲が垂れ込めていて低い。

 すん、と鳴らした鼻孔を埃っぽくて水っぽいすえた匂いがくすぐる。ペーラレイムがすぐそこまで来ている。じきに此処まで辿り着いて、街を飲み込んでしまうだろう。
 人並みを横切り、再び靴裏が影を踏む。数歩を進めば全身がとっぷりと影に飲み込まれる。それでも歩みは止まらない。カツンコツンカツン。低い足音が薄い鉄板を踏みしめ甲高く変わる。カン・カン・カン・カン……、階段を上りきり、主演は舞台の上へ。

 さぁ、音楽を。
 ウィリとミノタウロスによる、パ・ド・ドゥが幕開ける。
 
 真っ白い手が拳を作り、薄っぺらいアルミフレームの扉を三度叩く。スモークガラスの向こうに人影は無いけれど気配は確かに感じられる。壁の向こうで猜疑心と敵意が濁っている。『誰だ』低い男の声が誰何した。

「私は迷宮。リュッピレー彗星がグルボレイア星雲へ辿り着いたの。ワルツが始まったわ。ミノタウロスはお腹がすいているの」

 ……数秒、空白が落ちた。

『…………宗教の勧誘なら他を当たれ。病院が入用なら通りの先だ』
「ミノタウロスはお腹がすいているのよ」

 朱紐へ指をかける。背後のさび付いた手すりに体重をかけないよう注意しながらネコのマスコットをそっと捕まえた。

「今日のお菓子は4つだけなの」

 打音が弾けた。
 1秒間に100近いタップが一個の音となって長く叩き鳴らされビルひとつ向こうの喧騒を縦に引き裂く。激しいリズムに合わせて薄い扉に無数の穴が穿たれ火花を散らし、時折手すりにぶつかってはカンと高い音を混じらせ続く。闇を劈くようなフルオート射撃は、やがて始まりと同じく唐突に止まった。
 オレンジとホワイトが踊る。軽やかなステップを踏んで、穴だらけになった扉のノブを鉄製のかかとが蹴り飛ばす。弾けるように開いた扉の蝶番がはずれて何かにぶつかるけれど意にせず室内へ駆け込んだ。するりと分厚い布がほどける。ほどけきる前に布ごと中身を掴んだ両手が前後に開く。鞘走りの音を奏でながら、白い刀身が蛍光灯の明かりの下で煌いた。
 ごんっ、と、すぐ右手の壁に男の頭がぶつかった。がくりとサブマシンガンを構えた体が傾く。黄ばんだ歯と赤い舌を露出して、上顎から先を失った男は真っ赤な血を噴出しながら後ろへ倒れこんだ。

「クソがッ!!!!」

 左手で薄い板が床を跳ねる音。足を前へ踏み出し後ろへ飛べば銃声が二度。次の楽器はハンドガンか。しゃがんだ手で地面に落ちた布を掴み、ぶわりと広がるように投げた。くぐもった驚愕に刃を突き立てる。ずぶり。

「っのアマぁああ!!!!!」

 タップ音が劈く。彼の楽器もサブマシンガンか。前転の要領でスチールデスクの影にもぐりこみ盾にしたが得物は肉塊に突き立ったままだ。しかし取りに戻れば蜂の巣は確定だろう。しかたなく空手のまま繋ぎ合わせられたデスク沿いに這う。途中で音色が止んだけれど、端へ辿り着いた彼女はオフィスチェアを勢い良く押し出した。キャスターが濁音で回転しすべり出て、同時に鉛弾が注がれた。
 しかし紅茶色の瞳はその光景を見ていない。靴裏がデスクを踏む。こちらへ気づいた男の驚愕色をした顔へ、飛び膝蹴りを叩き込んだ。倒れた男の手から銃を奪い隅へ投げる。

 室内に立っているものはこれで彼女ただ一人だ。獲物が足りないぞとミノタウロスが吼える。女性の怒声と騒音。窓だ。窓が開いている。その向こうから喧騒が聞こえる。窓の外には50p程度の隙間を挟んでほぼ正面に隣の建物の窓があった。罠の類いは見当たらない。手前の窓枠に乗り奥の窓を潜ってコンクリートが剥き出しの床を踏む。廊下だ。すぐ近くの部屋の扉が開け放たれていて、喧騒はそこから聞こえるようだった。ヒステリックな女性の断続的な罵声。男の怒号とも悲鳴ともつかない声があがるたびに室内から現在進行形で投げつけられ続けている服やら小物やらが廊下へ転がる。そのなかに折り畳み式のパイプ椅子を見つけて、持ち上げた。

「クソッ、早くしねぇと始末屋に追い付かれ……!」

 ガズッ ――濁音を奏でてパイプ椅子の角が男の後頭部にめりこむ。少量の血液を床へ散らせて、最後の獲物は倒れ伏した。

「……私は護り屋よ」

 呟きは届かない。 



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