明るく自由で飄々としていてつかみ所のない、何にもつかまらずとらわれない。そんな強く優しく奔放なあの人が―――――
  ――――――――
死んだ。













 糸の切れた凧 あるいは紐の無い風船。 一枚の木の葉。
 その女性を知る者は、彼女をそう言い表した。
 誰もが彼女を嫌いにはなれず、誰もが彼女を慕い、誰もが彼女に姉妹か兄弟か、父か母か親友か恋人のように心を許した。
 風のようで火のようで水のようで大地のような人。
 決して完璧などではないのに、誰もが彼女に魅かれずにはいられなかった。
 裏表の無いその笑顔に、誰もがつられて微笑んだ。
 妬みも 嫉みも 憎悪も 怒りも、彼女の前では無力であった。
 藤原 光華――――――――彼女はみんなの希望で、みんなの光。
 なのに彼女は


 死んだ。





 光華の御通夜は親類だけの慎ましやかなものであった。だが、数日後の葬式にはその反動のように彼女を慕った人々が大人も子どもも詰め寄った。
 誰もが彼女の死を悔やみ、嘆き、なじった。そして誰もが涙を流した。
 その情景をどこか遠くのことのように眺めていた男――――――それが俺だった。
 椅子に座って、唖然と、呆然と、満面の笑顔を振りまく彼女の遺影をただただ眺めていた。

 信じられなかった。
 信じ難かった。
 あの糸の切れた凧のような女性(ひと)が、車なんかにつかまるなんて。
 世界が滅んでも生きていそうな、彼女が――――――死ぬなんて。
 医者の話しによると、頭の打ち所が悪かったらしい。先刻見た彼女の屍は生前と変わりはなく、ただ眠っているだけで、今にも起き上がって笑いかけてきそうだった。

『驚いた?』

 そう、悪戯な笑みでおどけてくれそうだった。
 けれどその顔に血の気はなく、生気というものは感じられず、彼女が死んだことを改めて思い知らされただけでもあった。
 彼女の顔の横に、彼女の好きだった椿の花をそっと添えた。
 いまごろ、彼女の亡骸は火葬場についただろう。彼女の身体が焼かれる姿など見たくも無くて、俺は居残った。

 俺の憧れだった人 俺の道標だった人 俺の目標だった人 
 俺の――――――――――――血の繋がった姉だった人。

 両親が離婚してからも、あの人は変わらず俺を弟だといって笑いかけてくれた。
 不思議と涙は出なかった。 悲しくも無かった。
 ただただ、絶望を越えた無が、ガラクタみたいになった俺の身体を満たしていた。
 ただ唖然と、ただ呆然と、親戚の、顔しか覚えてないおじさんに促されるままに俺は家路についた
 ――――――俺の命も、あの鉄の死神が奪ってくれないだろうか。そんなことを漠然と考えながら。
 自殺なんてことはしない。 
 彼女が去年ふざけて書いた遺書にはただ一言

『生きて』

 それだけが記してあった。
 誰もが彼女らしいと微苦笑した。
 誰に向けられた言葉でもない。
 彼女は全ての大切な者たちにそう遺したのだ。
 彼女らしいと俺も思った。

 けど、
 笑みは浮かばなかった。 
 彼女らしく優しい、残酷な遺言。
 後を追うことなんて許してはくれない。
 姉が死んでも、母だった女に俺を引き取るつもりは無い。
 父は去年の秋に死んでいるから、家族はこれで本当に無くなった。

 俺にとって家族は、父と姉だけだから。

 父の持っていた株は、皮肉なことに父が死んだ三日後、急激にその値段を上げ、俺はそれをぜんぶ売り払った。俺一人ぐらいなら、先十年は余裕で暮らせる金額―――そんなもの残さなくていいから、生きていて欲しかった。
 誰もいない家の玄関を開けて、虚しさと寂しさだけが充満するリビングから眼をそむけて、まるで逃げるように二階の自室に駆け込んだ。
 電気をつけて、喪服を脱ぐ途中でそれさえも面倒になってベッドに仰向けに倒れこんだ。
 父が死に際に残した言葉が耳の中でこだまする。

『生きろ』

 何かの皮肉なのか、
 親子そろって同じことを言いやがって

 父も姉も、二人して俺を拒絶する。あとを追おうとする俺を、責め立てる。
 もうどうでもいいのに、俺はまだ生きなきゃいけない――――――姉と父が望むから。


「――――――くそっ」


 せめて復讐する相手でもいればよかったのに。
 今頃沸き起こってきた激情に、俺は悪態をついた。
 この怒りを、悲しみを、虚しさを、憎しみにしてぶつけられる相手がいればいいのに。
 それとも、姉はそれさえ許してはくれないのだろうか。
 死んでしまっては、それを聞くことさえできないではないか、
 涙が出てこない。涙が流れない。激情がぐるぐると身体の中で捌け口をもとめて渦巻いている。


「――――――くそっ――――――」


 それでも、いつのまにか俺は眠りに落ちていった。















《貴様が夜独(やひと)か?》


 夜の闇と同じ声で問われて、


「あぁ」


 俺はなかば無意識に答えていた。
 低い、けれど湖畔のように澄んだ声。気高さに彩られた静かな声。
 死神がいるのなら、こんな声だろうか―――――――――そう思った。


《光華の弟だな?》
「そうだ」


 答えた声が薄闇に溶け入るより前に、開けた視界で漆黒の羽根が吹き荒れる風に遊ばれるように、ぱっと舞い踊り、それを遮るように何かが俺の上に覆いかぶさった。
 その確かな重量に、俺はこれが夢などではないことに気づいて身を強張らせ、息を詰まらせた。
 動けば触れ合うほど近くに、見知らぬ男の顔があった。


《亡き光華との盟約により》


 その男の吐息が唇を撫ぜ、その感覚に、美酒にでも酔ったように頭がくらくらと平衡感覚を見失う。


《凪 夜独 貴様に契約を移行する》


 契約?
 何のことかわからずに、俺はただ血の色よりも赤い瞳に魅入られていた。


《証を――――――》
「っぃ」


 脱ぎかけのままはだけていた服に、氷のように冷たい手を入れられて俺は悲鳴を飲み込んだ。


「――っ―つっぅ」


 胸の間―――心臓の真上に爪を立てられ、もがいた身体を封じるように、男はその場所に顔をうずめる。


「なにっ、を、―――っぁ、」


 問いさえも飲み込んで、俺は嬌声をあげた。
 爪を立てられたその場所を、その指からは考えられないほどに熱い舌が這い、その唇が傷口をすすった。


「あぁっ、やっ・・・め・・・っ」


 それだけだというのに、背筋に響くような快楽に、俺は情けないほど喘いでいた。


「んっ、」


 舌が傷口にもぐりこんでくる。
 びくびくっ と、その未知の快感に、俺の身体はベッドの上で自分でも滑稽に思うほど身体を跳ねさせた。


「はっ―――ん―――」


 慌てて両手でふさいだ唇から、押さえきれない鼻にかかった甘い声が漏れて、自分のものとは思えないその声に、顔が火照っていくのをリアルに感じた。


「はぁ、ぁ」
《よい声で啼く―――――光華とは大違いだな》


 くつくつと、皮膚の上でからかうように笑われて、俺は恥辱に叫んだ。


「なん、なんだっ、お前は!」


 逃げようともがく俺をベッドに縫い付けて、その男は顔を上げ、獲物をなぶる様を愉しむケダモノのように目を眇めて、哂った。
 寒気がするほど綺麗な男だった。
 ついていたはずの明かりは、この男を自ら等の卑小な光で照らすことを恥じるように沈黙し、薄闇が部屋を充満して、その薄闇の海に、透けるような紫黒の髪が波打っていた。
 欠点などおよそ考えられない造形の顔に、切れ長の、背筋が痺れるほど美しい瞳が欺瞞に炯々と煌めいていて、その、底の見えない赤の宝玉に恐怖が、畏敬が、這い昇ってきて、俺は息を飲んだ。


《俺はルシフェル》


 血を吸って赤い唇が弧を描いて言葉をつむぐ。


至高の魔王(サタン)だ》









 ――その日、俺の世界が豹変した。 
 何も知らなかった俺を、嘲笑い、裏切るかのように―――――









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