自称『食事』をすませたルシフェルは漆黒の翼で一度強く空を打つと、愉しげにその羽根をひらひらと降らせながら俺の前に降りてきて、猛禽類を思わせる笑みでその形良い唇を吊り上げ言った。


《ご苦労だったな。貴様もなかなかこの殺し合いになれてきたようじゃねえか》


 それが皮肉や嘲りなら、まだ救いがあったのかもしれない。
 だが、どこか楽しげで、嬉しそうなその言葉と笑みに、俺は幽愁を苛立ちにまぎれさせ、それでも冷静さを残した声で応えてやった。


「この五日の間にこれだけ戦わせられれば嫌でも上達はするさ。今ので何組目だと思っているんだ?」
《二十四組目だろ? 一日約五組。少ないもんじゃねぇか》


 どこがだよ
 からかうようなそのふざけた言葉にできる限り冷ややかに返答しようと思った俺は、ふと疑問に思って、思うと同時に言葉は出ていた。


「まさか、一日五組が少ないなんてたわごとがぬかせるぐらい光華を戦わせていたのか?」


 その、思ったよりも語気が強くなった詰問に、ルシフェルは答えるのではなく、呆れたような、鬱陶しそうな眼をしてうんざりと言った


《お前、二言目には光華光華って、シスコンかよ》
「っ、だまれ!」


 自覚があるだけに、他人――しかも魔王にそんな嬉しくもないことを指摘され、俺は思わず怒鳴り返して――言い終わると同時にその反応こそが何よりの肯定であることに気がついたが、そのときにはもう遅く、俺が内心で臍をかんでいることに気づきながらこの魔王は意地悪い笑みを口の端に上らせた。


《ほう、自覚はあるみたいだな》
「っ、っ〜」


 怒鳴り返したい。だがそうすればこいつの思うつぼだ。この魔王は俺の言葉の端々を捉えて、揚げ足を取り、俺を怒らせる遊びが今のマイブームなんだからな―――この数日でそう学んだ俺は、必死に怒りを飲み下した。


「―――まったく、お前が元光華のパートナーとはな。俺は心からあの人に同情するよ」
《けっ、その必要はねぇだろうよ。光華は俺との共同生活を楽しんでいたからな》


 その言葉に滲む苦々しさに、俺は首を傾げかけて―――――納得した。
 光華の性格上、相手が魔王だろうと爬虫類だろうと意思疎通さえできればすぐに友好関係を成立させられるだろうことは目に見えている。
 しかも、彼女はちょっと嫌味を言った程度では、それが嫌味だと気づきもしない。ルシフェルにすれば、やりにくい相手だったはずだ。
 あるいは光華に、手玉に取られていたのかもしれない。
 そんな光景を想像して、俺は浮かびかかった笑みを苦労して押し殺し、前々から疑問に思っていたことを何気なく口にした。


「そういえばお前、何だって光華と契約したんだ?」


 途端、ルシフェルの顔が奇妙に歪んだ。
 嫌なことと愉しかったことを同時に思い出して懐かしめばこんな顔になるんじゃないだろうか? そんな奇妙な顔をしていても、名工の生み出した芸術品にも勝るその美しいとしか言いようのない横顔は崩れない。それのまなざしを遠くに向けて、ルシフェルは懐かしむような、呆れた声で答えた。


《降りてきた日に、ちょと腹ごしらえをと思って入った家がたまたま光華の部屋だったんだよ。あいつ俺を見て『お茶でも入れようか?』とかヌかしやがったんだぜ? それで、面白いから契約を持ちかけたら、『私が死んだ後、夜独に契約を移行してくれるなら』って条件だしてきたから、それのんで契約を結んだってわけ。ほんと、わけのわかんねぇ女だったぜ》
「光華らしいな。」


 そう、光華らしい。彼女には常識というものが通用しないし、たとえ眼前に植木鉢が落ちてこようと動じないほど図太い神経をしていた―――いや、あるいは神経そのものがもともと欠如していたのかもしれない。そんな女性だった。
 彼女は驚かない。彼女は否定しない。彼女はあらゆることを自然体で受けとめる――――彼女が本当に人間だったのかさえ疑ってしまうような、そんな奇妙な女性だった。
 けど











「なんで、俺なんだ?」
《あ?》












「契約の移行者だよ。なんでわざわざ、俺を指名したんだろう―――それが、いくら考えてもわからないんだ。」


 あの人の行動の意味なんて、いつも最後になるまでわからなかった。
 最後の最後になって振り返ってみてみれば、『ああ、この人らしいな』っていつも思わされるけど、
 今回は、いつもとはちがう。
 あの人は死んでしまったのだ。
 だから、結果を教えてくれることも、導き出してくれることも、もう、ない。
 途中で終わった彼女の行動の真意を、俺のような凡人が悟ることなど不可能に近かった。
 そう、いつも―――――――


《おい。なにぼけてんだ、次ぎ行くぞ》


 思考に沈んでいた俺は、ルシフェルの言葉に意識を現実に戻した。


「―――次? ちょっとまて、まだ戦わせるつもりか?!」
《当たり前だろう。てめぇら人間の時は短いからな。死なれる前にしっかり協力してもらわねぇと―――っと、向こうからおいでくださったみたいだな》


 あまりにも愉しそうなその言葉の先に眼をやれば、たしかに、魔王と契約した証ともいえる黒っぽいどろどろとした紫色の、気体のようなもの――― 一般にオーラとか呼ばれているものだ――――に包まれている男が一人、こちらに向かって歩いて来ていた。
 身長は俺と同じぐらいで、黒のジャンバーに、ところどころ穴のあいたGパンをはいている。ざんばらに伸びた黒髪から覗き見える黒瞳が、爛と輝いて俺を射抜いていた。


《ほぉう、ベルゼブブじゃねぇか》
《お久しぶりにございます。我らが大罪の君。魔族の王よ。》


 軽い驚きと、なぜだか軽い嘲りを含んだルシフェルの呼びかけに応えたのは、男の頭上にいつのまにか出現していた、巨大な蝿だった。
 六つの赤い眼をもつその小さな家ぐらいなら軽く乗るだけで押しつぶせそうなほど巨大な蝿は、その羽で ぶぅぅん という不快な音をあたりに響かせながら、頭を低くした。 
 たぶん、本人はお辞儀でもしたつもりなんだろう。そう見えなくもなかった。


「知り合い、なのか?」


 いままで戦った相手である魔王の中にはルシフェルのことを知っているやつも半数いた――――が、それに対してルシフェルが顔と名前を覚えていたやつは一人もいなかったりする。
 それを考えると、ルシフェルが名前を知っていて、しかも自分から呼びかけるなんて現象は、俺にはひどく珍しい光景のように見えた。

 《ザコなんざいちいち憶えてられるかよ》

 そうあっさり言い切るルシフェルが憶えている相手なのだから、ザコじゃないぐらいは強いのだろう。
 用心深く訊いた俺の質問に、ルシフェルはあっさりと答えた。


《ああ、元部下だ》


 その意味がわからずに、反芻するよう問い返す。


「元?」
《『闇の定め』に参加した魔王は、全員上下関係を失うんだよ。上司も部下も、親も子も関係ねぇ、だろ?》


 最後の言葉は蝿野郎―――じゃなくて、ベルゼブブに向けられていた。


《もちろんです。そうでなければ、どうしてあなた様の前にこの姿をさらしましょう?》


 魔族の主従関係って・・・・
 その答えの中に、多分に含まれる殺し合いへの期待とうずきに、俺は理解できなくて頭をかいた。
 元とはいえ、上司を殺すことが至高の喜びだとでも言いたげなベルゼブブの意識に同調してか、相手の男の瞳は異様なほど爛々と輝いている。


「どういう魔王なんだ?」
《その名の意味は『蝿の王』面白がって蝿の姿をとるようになったのも、この蔑称がもとだ。元の名は『高い館の王(バアル・ぜブル)』だったがな。俺たち『七つの大罪』のひとつ、暴食をつかさどってやがる。食われるなよ?》


 『七つの大罪』とは、キリスト教が禁じている『傲慢』『嫉妬』『色欲』『怠惰』『貪欲』『憤怒』そしてこの『暴食』のことで、それぞれの罪を犯させる悪魔がいるといわれている――――って、ルシフェルに会ってから調べたオカルト系サイトにのっていた。
 ちなみに、ルシフェルが司っているのは『傲慢』。
 まさにぴったりすぎて笑えやしない。


《あとはそうだな、蝿の大群を操るぐらいか、》
「なるほど、それは嫌だな。」


 一瞬、空を埋め尽くすほどの蝿の大群に囲まれた自分の姿を思い浮かべて、俺は頬の肉を引き攣らせた。
 だがその不吉な想像はひとまず杞憂に終わる。
 ゆらり、と、隙のない動きで歩み寄ってくる相手の契約者の後方に、ベルゼブブは待機していたからだ。


 『闇の定め』の一般的な戦闘形式は、契約者同士が殺し合い、魔王がそれをサポートするというもので、今回のベルゼブブも、どうやらこの試合形式で戦ってくれるらしい。

 魔王が自ら力を振るうのではなく、人間という矮小な媒体を通してその力を行使すると、どうしても威力が落ちてしまう。
 それは人間という器の限界を超えて力を行使すると肉体と精神の両方が耐え切れずに自滅してしまうから、自己防衛本能が働いてそうなるらしいのだが、まぁ、つまり、人間である契約者の力なら、どんなに人間離れしたヤツだろうと俺を取り囲んで殺せるほどの蝿を召喚することはできないだろう。
 樽の中に満たされた酒をグラスで酌んだところで、一度にグラス一杯分以上の量を酌めないのと同じ理屈だと俺は解釈している。


 ―――と、敵の分析はここまでだ。後は戦いながら、相手の癖とか性格を把握していけばいい。
 殺し合うには、それだけで十分だ。






 同じように歩み寄り、俺は一度、思考を切断した。










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