自らの不幸を嘆いた俺は、今がそのような場合ではないことを思い出す。


「さっさと、退け! じゃれてる場合じゃあ――――あ?」


 叫んでいる途中で、俺は唐突に、ある疑問にたどり着いた。
 そう、こんなことをしている場合じゃないし、こんなことができる状況でもないはずだ。
 なにせ今回の敵はやたらと強い。
 先ほど見せ付けられた再生力ならば、今俺が負わせた傷も、十五分もあれば完全に再生できるだろう。
 いや、五分もあれば動けるようになるはずだ。

 それなのに、
 どうして敵は攻撃してこない?


「―――っ、ルシフェル、敵は今、なにをしている?」
《あぁ? 動けなくて焦ってるみてぇだぜ?》
「――――動けない?」


 まだ傷が治っていないのだろうか――――いや、そんなはずはない。
 くそっ、耳鳴りがうるさくて思考がまとまらない。


《なんだ、まだ聞こえないのか?》


 ――――聞こえない?


「お前の声なら、さっきから聞こえ、て・・・?」


 呟いて気づく。
 耳鳴りがうるさくて周囲の音なんて聞こえないのに、どうしてルシフェルの声はこんなにもはっきりと聞こえるんだ?
 俺の疑問に気づいたのか、目の前の相棒の口角が意地悪気に吊り上げられた。


《ぶわぁか。俺たち魔王の声が聴覚で聞くもんだったら、関係ない一般人にも聞こえんだろうが。そんなことにも気づかなかったのか?》
「っ」


 そのムカつく言い回しに俺はそれでも納得する。
 どうやら魔王たちの声は、脳に直接響くものらしい。
 さらによく考えてみれば急激な重力の変化に鼓膜というむき出しの器官が耐えられるはずもない。
 どうやら終始鳴り続けている耳鳴りは、三半規管の破損からくるものだったらしい。


《ほらよ。これで聞こえるだろう?》


 横柄に言って、触れられた耳に突如音が甦った。
 ごうっ
 ・・・ごう?
 その、普段は聞きなれない―――そう、夏休みに光華と行ったキャンプで聞いたことがある、炎が燃える音。
 ―――炎?
 新たな疑問に俺が眉根を寄せると、ルシフェルが俺を抱き上げた。


「っな」
《見て、理解しろ》


 背に感じるルシフェルの冷たい体温に一瞬身動ぎしながら、俺は眼前に広がるその光景に言葉を奪われた。

 炎―――確かに炎だった。
 赤々と燃える炎の壁が、周りに広がる雑木林を燃やすこともなく俺達と相手の間に壁を築き、爆ぜていた。

 なん、なんだ?
 その異様な光景に、俺は唖然と見入る。


「さっきの、あいつの能力か?」


 おそらく違うだろうと予測しながら、俺は背後のルシフェルを問いただす。


《ちがうぜ。》


 予想通りの、ルシフェルの返答。
 それに俺はやはりそうかと一人うなずく。
 生に執着していない、戦うだけの機械人形のようなあいつの瞳。
 生きることに執着していないからこそ、もっとも迅速な方法であいつは敵を殺すだろう。


 他人の生を感じていたくないから
 どうでもいいから
 早く終わらせようとする。

 あいつは俺と同類だ。
 だからわかる。
 あいつは、こんなまだるっこしいことはせずに、直接俺の首を掻きにくる。
 俺が生き残る可能性を与えるようなヘマはしないだろう。
 それを肯定するように、ルシフェルは くくっと、喉が引き攣るような陰険な笑みを漏らした。


《あいつの唯一の弱点は炎だ。だから炎に属する能力は使えねぇよ。自分を焼いちまうからな。》


 何せ奴は蝿の王。 
 虫の大敵は炎と決まっている。
 その瞳には、天敵に囲まれて焦燥するベルゼブブの姿でも映っているのだろうか、
 まっすぐ前をみて口角を吊り上げる姿を見ながら、ふと、そんなことを思った。
 しかし、思考をそこで留めているわけにはいかない。
 この炎の壁がベルゼブブの能力でないのなら、
 一体、誰の能力だ?


「ルシフェル、この近辺――そうだな、半径2キロ以内に現在能力を行使している魔王と契約者はいるか?」


 魔王は力有るものの所在地が判るらしい。
 そして、力を対象に行使する場合、対象の存在を視覚的にか嗅覚的にか、とにかく感知できる距離にいなければならない。
 以前にそう聞いていたので、俺は迷わず聞いた。
 が、


《残念だが、判らんな》
「なに?」
《炎が目をくらませてやがる》


 ――――探査は不可能。か、
 ルシフェルのさして悔しそうでも無い返答に、俺は舌打ちし辺りを見回す。
 頼れるのは自らの五官だけとなると、少々――――否、かなり厄介だ。しかも相手はルシフェルの探査能力を無効化できるだけの能力を持っていることになる。

 ―――― 一度、退くか。

 情報が皆無な上に現在の状況では戦闘になった場合圧倒的に此方が不利すぎる。
 無謀も無茶も無鉄砲も唯の愚考。『闇の定め』では生き残る事だけが意味ある行為。
 それ以外の全てがその為の過程なら、逃げる事も賢考になりえるだろう。














 ――――退くか
 ――――攻めるか













 現状から考えられる限りの可能性をシミュレートし、その中で最も生き残る可能性の高いモノを選び抜く。
 ふ、と、自嘲が口の端に浮いた。

 ――――もう全てを失って、それでもまだ、俺は生きようとするのか。

 父と姉の遺言を、言い訳にして。
 両手の指が動くのを確認し、動けるまでに傷が治ったのを確信してから俺は口を開いた。


「――退くぞ。」
《ケケケッ、了解、相棒。》


 満足げに愉快気に、哂い、ルシフェルは俺を腕に抱いたまま紫紺のマントを靡かせる。
 ビロードのように広がった布が視界を包み、世界から隔離する。
 俺が瞼を閉じたときにはもう、




 ――――俺達はその場から消えていた。












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