　あの日から、俺は幾度後悔を重ねただろう。
　間違いに気づくたびに、或いは気づけなかった過ちを見つけるたびに、
　俺はお前に懺悔する。

　

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　０４．　　懺悔

「スルト。炎の国ムスペルヘイムの王であり、僕の名付け親」

　歌うような調子で紡がれた声音はしかし静かに暗く、全身をここ数日間続く滝のような雨に濡らして、いつもはくるくると色の変わるその瞳を濁った沼の色に染めて。彼の住居である城の庭園に佇む見知った青年の姿にスルトは思わず息を呑んだ。
　短い濡れた黒髪を頬に顎に張り付かせ、薄く仮面のような微笑を浮かべるその男は、この国の出身者であり、スルトがかつてロキと名づけた子。ある日突然神々の父と義兄弟の契りを交わし、国を飛び出していった子。
　名だたる神々の中へ名を連ねたその後も、暇さえあれば顔を出して外の世界について面白おかしく語り、そしてまたふらりと帰っていく。そんなことを繰り返していたのだが、此処数百年、急に音信不通となり、そして今日、矢張り何の報せも前触れも無く姿を現して――――こんな、絶望の底を覗き込むような瞳をして、

「突然の、しかもこのような姿での訪問で、すまないね」
「何を言っている。お前は血は繋がらなくとも俺の息子だ。子が自分の家に帰るのに礼儀もクソもあるか！」
「ふふふ……変わらないね、君は。……いいや、君だけじゃあない。この国は、何も、変わっていない。変わらず、平和で、優しいよ」
「ロキ……」

　何が、
　何があったというのか。
　自ら光を放ち、多くのものを惹きつけずにはいられない、力と才気に溢れる、彼が、
　天から真っ直ぐ落ちてくる雨の中、
　まるで、幼い無力な子供のように

「どう……したんだ。何があった！？」
「スルト……」

　駆け寄り、その肩を強く掴んで揺さぶる。
　本当に彼がそこに存在しているのかを、確かめるように。
　そうせずにはいられないほどに、今の彼からは生気を感じられなかった。

　雨が、
　ロキの顔を、全身を、止まる事無く伝う。

「僕は、」

　産まれた時から、泣いている事よりも微笑っている事の方が多かったロキが、
　それは初めて流す涙のようで。

　ざぁざぁと鼓膜を支配する雨音の中。消え入りそうな、けれど泣き出す寸前の子供のような、
　裏返った甲高い音で、
　ロキは言った。

「僕はっ、愚かだったのかなぁ……っ？」

　目を瞠る。思わず呼吸すら忘れるほどに、弱りきった声。
　いつも自信に満ちていた、あのロキは何処へいったのか。

「……、…………何が、あった？」
「………」

　ここの外で。
　神々の国で。
　お前は幸せだと、最後に会ったあの日言ったじゃないか。

　返ってきた沈黙は、拒否ではなく伝えたいモノが多すぎてのソレで。
　無言で言葉を待てば、

　くっ、と、
　無理矢理笑おうとしたその顔が引き攣る。
　眉間に皺が寄り、顔が伏せられ、額がスルトの胸板に押し付けられる。

「…………だったんだ」
「…？」

　聞こえなかった言葉を問うよりも先に、
　高い、ヒステリックな叫び声があたりの音を掻き消した。

「嘘だったんだッ!!!!」

　今まで一度も聞いた事の無い、理性の消し飛んだ悲鳴のような怒声に言葉を無くす。
　堰き止められていた水が溢れるように、スルトの服を握り締め、大地に向かって、ロキは叫ぶ。

「嘘だったんだよ全部!!!　友だと思っていた者達は全部敵だったんだ!!!　トールもバルドルもシギュンも……オーディンもッ!　……友達だと思っていたのは僕だけだった……ただ太陽すらも産み出せるムスペルヘイムの力を彼らは自分達の血に取り入れたかっただけだったんだ！
　全部…………嘘……だったんだ……」
「そんな……まさか……」

　実際には会った事の無い、けれどロキの唇から楽しそうに紡がれ語られたアース神族の者達。

　初めて親友と思える者に出会えたと照れたように微笑んだ。
　まるで弟のような存在なのだと、嬉しそうに笑った。
　優しく可愛いけれど芯の強い女性で、妹のようにしか思えないけれど、確かに愛しているのだと、静かに語った。
　本当の兄のようで、時に疎ましいのだけれど、とても尊敬していると、強く言った。

　その関係の全てが、嘘だった？

「何かの、間違いじゃ」
「アングルボダが殺された」
「……っ！？」
「指示したのは…………オーディンだった」

　それは、巨人族の預言者。初めてロキが、全てを賭けて愛した女性。
　最後に会ったあの日、オーディンに彼女と、その間に生まれた子供達のことを話すのだと言っていた。そして結婚を許してもらうのだと。今の妻はどうするのだと問えば、シギュンの事は妹としか思えないし、彼女も僕の事は兄のようにしか思えないと言っていた。何より彼女は、本当はずっと前からバルドルに焦がれていたのだから、離縁するのが一番いいんだと、そう答えた。
　『オーディンなら、きっと分かってくれるよ。』強い信頼の込められた声で、そう言っていたのに。

　　
「子供達は」
「フェンリルは孤島に鎖で縛られ、その顎を剣で縫いとめられている。ヨルムンガンドは、暗く冷たい海の底へオーディンの手で沈められた。ヘルは冥界に落とされ、オーディンがその管理を命じたそうだ」
「なんてことだ……助けには」
「当然行ったさッ!!!　だけど、結界に阻まれて、その姿を見ることさえ出来なかった……。ニヴルヘイムには結界は無いけれど、生者である僕は存在を拒まれるから同じことだ……」

　あの子は、生まれつき酷い病で、身体の半分が死んでいたから。だからニヴルヘイムにも受け入れられたんだと思う。搾り出すように呟き、絶え間ない雨が沈黙に被さる。
　

「…………。……何故だと詰った僕に、オーディンは言ったよ――」

　――”危険だからだ”と。

　嗚呼、と、両の瞼を強く閉じる。
　それは本当に、真実ロキを理解し信じているならば決して出てこないであろう言葉。
　全てが嘘であったことを、何より証明する、言葉。

「…………愚かな……っ」

　呻きが喉から零れ落ちる。愚かな。ああ、なんて愚かな王だ。やはり外の者を信じてはいけなかったのだ。ちょっと外の世界を見てくるよと、朗らかに笑って旅立つこの子を、自分は全力で止めなくてはならなかったのだ。

「………ねぇ、スルト…………僕は、どうすればいい……？」

　細く、氷で閉ざされた崖の隙間に吹く風のようにロキが問う。雨に浸食された身体は死体のように冷たくて、スルトは両の膝をついてその自分の半分ほどしかない小さな子供を己の熱を分け与えるように抱きしめた。

「わからないんだ……。何も考えられないんだよ、スルト。僕はどうすればいいのだろう……？」

　いつも勇ましく胸を張り、決して自分を見失わず威風堂々と立っていた男が震えていた。自分よりも強い者に縋り、乞うていた。
　何が一番良いのかとスルトは考える。いっそ燃え盛る炎で隔離されたこの楽園に閉じ込めておこうかとも考えた。そうすればもうこの哀れな羊が傷つくことも無い。外界の事など忘れて、ただ穏やかに時を過ごせばいい。―――そう言ってしまいたいのを、スルトは己が持つ全ての理性でもって食いとどめた。

「………耐えろ、ロキ」

　絞り出した声に小さな肩が震える。それでもスルトは息を吸い込むと、今よりも強く、きっぱりと告げた。

「耐えるんだ。苦しみを耐えて、奴らの膝元へ帰れ」
「そんな、」

　怯えた声でロキが囁く。ゆるく、俯かれたまま頭が左右に振られた。

「いやだ、むりだ」
「耐えるんだ。お前が耐えなくて、どうやって子供達を救える？封じたのがオーディンだというならば、解放できるのも奴だけではないか」

　息が飲まれ、それから食いしばった歯の隙間から小さく一度だけ嗚咽が漏れた。二度目の嗚咽は、飲み込まれる。

「………戻って、舞台で踊り続けろと、言うのですね。戯曲を続けろと」
「そうだ」
「……アングルボダは、首と手足を切り落とされ……胴体は、杭で打ちつけられていました。肉は食い荒らされ、雨風に晒されていた為にほとんど無く、骨にいくらか残っている程度だった。そこに蝿や蛆が集って巣を作っていた。切断された手足は獣が持っていったのか左足しか見つからなかった。彼女の好きだった野葡萄の木に髪で吊るされていた首だって酷い有様だった。
　だけど、でも、それでも彼女は生きていたんだ。僕が帰るまでの数十年間、そんな状態で彼女は意識を保っていたんだ！僕にっ……”幸せだった”と…ただ、その一言を伝えるそれだけの為に……。
　――彼女の受けた屈辱や、苦しみを思うと胸が張り裂けそうになる。腹の底から汚泥が溢れてくるようだ。酷い吐き気なのに嘔吐も出来ない。吐き出して楽になることなんて出来ない。頭の中が赤く燃えているんだスルト、このムスペルヘイムのように!! 目の前が何も見えない。一面に血をぶちまけたように真っ赤で、何も見えないんだよ!!!
　……頭で、心で、殺せと叫ぶんだ。僕の声が憎悪を叫ぶ。殺せ憎め怨め奪え壊せと僕に説くんだ。どうすれば奴等を皆殺しに出来るかだけで思考が埋め尽くされる。アングルボダを、フェンリルを、ヨルムンガンドを、ヘルを、奪ったアイツらを殺したくて仕方がないんだッ!!!　――………だというのに、スルト、君は僕に……あの場所へ戻って道化を演じろとそう言うのだね。この怨みの全てをひた隠して仲間を、友を、義兄弟を、夫婦を、演じ続けろというのだね？」
「………そうだ。それが、子供達を助ける唯一の方法なのだ」

　どれほど酷なことか、理解していながらスルトは繰り返した。ロキの震えが止まる。冷たい肩が一度静止して、それからまたゆっくりと揺れ始めた。
　「ロキ……」抱きしめようかと逡巡したスルトの鼓膜を壊れた音色が叩く。次の瞬間に弾けたそれはロキの哄笑だった。ところどころ裏返った笑い声はザァザァと地面を打ち続ける雨音と奇妙に同調しまるで歌っているようだった。
　自分さえも含めた世界の全てを憎み、怨み、罵倒するかのような、そんな壊れた歌。
　肺を空にしてもまだヒューヒューと笑い続け、それさえ出来なくなりむせてえづくように咳き込み蹲った愛息子の背を慌ててスルトが撫でた。……その身体が、手を拒絶するように立ち上がり一歩距離が開く。

「ありがとうございます、スルト。炎の国の王」

　スルトが息を呑む。起き上がったロキは背筋をしゃんと伸ばし、双眸を眇めて笑っていた。釣り上がった口角が偽りの逆さ三日月を描く。そのまま一度、ゆっくりと時間をかけてロキは王へお辞儀した。

「おかげで決心がつきました。貴方のおっしゃるとおりだ。僕は、アースガルドへ戻らなくては」
「ロ、キ…？」
「そのように不安げな顔をなさらないで下さい、義父様。自暴自棄になったわけではありません。ただ、眼が覚めただけなのです。そして気付いただけなのです」
「何を……何に……」
「ラグナロクをご存知でしょうか、義父様」
「!!?」

　目を瞠り、スルトは驚きに硬直した。そんな彼を見て「ご存知のようですね。当然か」歌うように呟く。その顔にニコニコと笑顔を貼り付けて。

「神々の黄昏ラグナロク。世界の終焉。神話の終わり。ねぇ義父様、強行に及んだオーディンが、いつかあの子達を開放するだなんて事があると思いますか？ ……ある筈が無い。そうでしょう？　だけど、ラグナロクが起これば？ノルニルの予言には『フェンリルはオーディンを呑み込み、ヨルムンガンドはトールと相討ち、ヘルは冥府の軍勢を持って神の軍隊と戦う』のだとあった。ならば、ラグナロクを起こせばオーディンの封印など破れるということだ。そうでしょう？　義父様」

　阿呆のように開いた口が塞がらない。暗く昏く沈みどろりとした何かの向こうへ行ってしまったような、闇色の微笑を浮かべ囁く義息が、見知らぬ化け物のように見えた。
　ラグナロク。何もかもを閉ざし終えるという、予言でのみ語られる遥か未来の、世界最後の戦。
　ロキとその子供達が引き起こすと語られるそれを、世迷言だと斬って捨てていた。なのに、

「まて、待て、待てロキ、それは」
「他に手立てがありますか？　義父様。　あの用心深いオーディンが、老獪な神々の父が、あの子達をこのロキの手に返すものか。ならば奪い返さなくてはならない。そうするしかない。しかしオーディンに勝る術者などあの世界には存在しません。ならば、僕に残された手段は一つだ」

　くすくすとロキが笑う。悪意が滴るような、蠱惑の微笑。粉々に砕かれたガラス達が月明かりを食らって光るようだ。美しく、痛々しく、恐ろしい。
　よろけたスルトの服をロキの腕が捕まえる。ぐっしょりと雨に濡れた腕。身体。張り付いた微笑。あぁ、まるで亡者のようだ。亡者が縋りつく。覗き込まれた瞳は、並々と注がれた血の如き赤。

「勿論、協力してくれますよね、義父様」

　雨音を縫って囁かれた声音は茨の形をしていた。

「神を名乗る穢れた者どもを、粛清いたしましょう」

　足元からぐるぐると絡まりながら這い登ってくる。
　天も地もなくなって、ただ憎悪の色にだけ捕らわれる。
　その色は絶望に似ていた。

「そ、れは……」
「…………今日は、もう戻りましょう。いずれまた、日を改めて」

　するり、解ける腕。けれど目線はそのまま。
　一歩、二歩、下がった悪意がお辞儀した。

「良い返答を期待しています、義父様」

　……歩き去るその背中を追いかけて、抱きしめられたならば何かが変わっていただろうか。
　悪意の塊のようになったあの子を、恐ろしいと、畏怖しなければ何かが違っていたのだろうか。
　積み重なった後悔に埋もれて熟考しては、誰にも届かない懺悔がまた積もる。

「…………すまない、ロキ」

　俺はお前の何一つも救えない。
　呟きが、また、

＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊
　02←　TOP　→08
　