カタリ、と
 開けた郵便受けの中にはスーパーの広告と、見覚えのあるメッセージカードが入っていた。朋幸は顔を顰めて蝶の模様をひっくり返す。
 縁に沿って印刷されたロココ調のライン模様と、黒色で描かれた百合の花。
 それから、文字。

【貴女の隣には私こそが相応しい】
「俺への宣戦布告か?」

 顰めた顔のまま呟く。そうと取ってまず間違いないだろう。贈り主にとって、一昨日から真李亜の部屋に泊まり込んでいる大沢朋幸という存在は邪魔者以外の何物でも無いだろうから。

「のぞむところだ」

 憤然と言い捨てて、朋幸はカードをパーカーのポケットに突っ込んだ。それからチラシを手にアパートの自動ドアを潜る。玄関を出て、わざわざ植え込みの縁に腰掛けてそれを広げた。
 そうして、広告に視線を這わせるふりをしてさりげなく周囲を窺う。犬を連れて早朝の散歩をしている初老の女性がゆったりと通りすぎ、ランナーが朝の冷えた空気の中で肌を晒して駆けている。時々思い出したように学生風の若者が自転車で通りすぎたり、車が通過したりする。昨日と変わらない、ごくありふれた朝の街景色だ。

 同窓会の夜に荷物を簡単に纏めて、ストーカー被害に遭っている真李亜の住むアパートへ朋幸が転がり込んでから、一日置いて二日目の朝。明日の月曜日からは朋幸も真李亜も仕事がある。昨日はまったく動きが無かったけれど、今日はどうだろうか。朋幸としては出来ることならば、月曜日が来る前にストーカー野郎の後ろ姿だけでも拝んでおきたい。

「(カードを贈ってきたってことは、近くにはいると思うんだよな)」

 カードには切手も住所も書かれていない。ということは、犯人か、その協力者かが直接郵便受けへ入れていることになる。あのメッセージが誰に向けたものであれ、贈ったからには受け取った者の反応は見たいだろう。ならばきっと、近くに潜んでいるに違いない。……と、いうのが朋幸の考えだった。
 しかしそれらしい人物は見当たらない。
 深呼吸のような嘆息を吐き出して、朋幸は立ち上がるとアパートへ戻ろうとした。

「もし、」
「!」

 息を飲んで振り返る。振り返って朋幸は驚愕に目を見開いた。
 朋幸のすぐ背後に立っていたのは、見目麗しい異邦人だった。ジェードグリーンの双眸が朋幸の視線を捉えるとやわく眇められ、紅く色づいた唇が笑みの形で開かれる。僅かに首を傾げた拍子に、さらさらという音色さえ聴こえそうな様子で長い金糸が流れた。

「アナタは、この辺りにお住まいデスか?」

 少々イントネーションが訛っているが、かなり流暢に異邦人は日本語を口にした。その声に朋幸はチェロの音色を想起する。なんて耳に心地良い、低く、艶やかで、よく伸びて、甘やかな音を奏でるのだろうか、この男性は。知らず知らずのうちに朋幸の唇から、ほぅ、と溜め息がこぼれ落ちていた。何か不思議な魔法のような声。否、声だけではない。男性を形作る全てのパーツが魔法のような、奇跡のような、そんな風に思えてならなかった。

「美丈夫ってこういうのを言うんだな……」
「Was?」
「すっげぇ美人。眠気が吹き飛んだ」

 疑問符にも頓着せずまじまじと見惚れながら染み染み言った朋幸の台詞にか態度にか、男性は困ったような顔で苦笑すると、黒手袋越しに頬を掻いた。

「ありがトウございマス。そんナにまっすぐ褒められることアリマせんから、うれしい」
「いや、むしろこっちが眼福ですありがとうございますってカンジだわ。アンタこないだホテルの前にもいたよなそうだろ」
「Hotel?」
「そうホテル! すっげぇ美人だなーって感動したから覚えてんだ。この辺りに住んでる人? 観光って場所でもねぇし」

 真李亜が住むアパートのある一帯は閑静な住宅街で、娯楽や見所の類いは一切無いのである。その上での疑問だったのだが、知らず男の質問に同じ質問で返した形になっていた。鼻白んだ男は、しかし若干戸惑いつつも口元には笑みをのぼらせて見せる。

「ヤー。そうデス、最近このアパルトメントへ住み始めまシた。アナタもソですか?」
「へぇ、そうなのか。俺は住んで無いんだけど、友達が住んでんだよ。んでしばらくそこに泊まり込んでんだ」
「なぜ?」
「まぁ、いろいろあってさ。あ、俺、大沢朋幸っていうの。トモユキ。呼びづらかったらトモって呼んで」
「ワタシはエドガーといいマス」

 言いながら差し出された手を握り返し、朋幸は改めて男を視る。エドガーの身長こそ朋幸と同程度だが、こうして近寄ると肩幅がかなりあることや、その他骨格が全体的に大きいことがよく判る。それなのに遠目だと細く見えたのはエドガーが黒みの強い衣装を身にまとっているからか。ダークグレイのトレンチコートはところどころに絞りが加えてあって、それが余計華奢に見せているのだろう。頭頂にはオペラハットと呼ばれるシルクハットを被っていて、黒い生地に黒のリボンが巻かれたそれは、いかにもなほど男に似合っている。これに仮面でも被れば、そのままオペラ座の怪人あたりの舞台に立てそうな気品と風貌だ。それと杖でもあれば完璧だったのに、などと惜しく思う。

「それで、俺になんか用?」

 今更ながらに首を傾げて尋ねる朋幸。エドガーもつられてか首を傾げかけて、オゥ、とひとつ頷いた。

「ソレ」
「それ?」

 視線と指とで示された先を見る。

「……この広告?」
「ヤー」

 肯定らしい言葉に、朋幸は手に持っていたスーパーマーケットのチラシを目線まで持ち上げた。赤色を主調としたやかましい色彩の紙に様々な商品の写真がプリントされている。店名はここから歩いて十分とかからない場所にあるスーパーのもので、今日の目玉はインスタントコーヒーとアイスクリーム全品半額らしい。

「これがどうかしたのか?」
「場所がわカラないので、教えていただきたいのデス」

 何分この辺りにはつい最近来たばかりなのでと頭を掻くエドガーに、成る程と頷いた。

「じゃあ、ちょっと待ってくれ。俺も買い物行っときたかったからついでに案内するよ。友達にメールだけしとくから」

 準不当にそう言ってポケットから携帯電話を取り出し、手早くメールを作成し送信する。入れ替わりに小銭入れを取り出して中身を確認すると、ひとつ頷いてポケットに戻した。

「んじゃ行こう。すぐ近くだから一回行けばわかるよ」
「アリガトうございマス」
「どういたしまして」

 などとやり取りしながら歩き出す。とは言っても朋幸とてこの辺りに明るい訳では無いので記憶を掘り起こしつつだ。もっともその記憶は別段深い所にあるわけではない。昨日真李亜と連れ立って買い出しに出かけたから、まぁ辿り着けるだろうという認識だった。

 遊具の多い公園の前を通り、カラフルなランドセルの群れに混ざり信号を渡って、開いている様子のない歯科病院を左へ曲がる。あとは大通りに添ってまっすぐ歩けば十分と経たないうちに目的の建物が見えてきた。あそこだよと民家の屋根越しに見えるまだ灯っていない電飾を指さし朋幸は言う。

「そういえば、エドガーあのアパートに住んでるって言ってたけど何階の人?」
「七階デス」
「近いな、俺んとこ六階なんだ。何号室?」
「十二号室デス」

 へぇ、と朋幸は目を瞬く。

「真上だ。すげー偶然だな」
「そうなのですカ。では、これからもヨロシクおねがいしマス」
「おう、つってもいつまでいるかわかんねぇけどなー」

 などと会話している間に敷地へたどり着いた二人はしかし、閑散とした様子に目を瞬いた。建物前の駐輪場には忘れられたみたいに二台の自転車が離れた位置で停まっているだけで、しかも歩道に沿って点在するポールにチェーンが掛けられており無言で侵入者を拒んでいる。
 朋幸はありゃ、と頭を掻いた。

「しまった、そういえば営業時間って基本九時くらいからか」

 ちなみに現在午前七時を二十分ほどまわったところ。二十四時間営業でもなければ開いていようはずもない。すっかり失念していた朋幸は、しかしまぁいっかとからり笑った。

「案内は出来たしな。とりあえずここがあっこから一番近いスーパーね」
「助かりマシた。……トモユキはこの後、どうしマスか」
「ん? 帰るよ。アパート。あ、途中でコンビニ寄るかな」
「では、おともします」
「そう? んじゃ戻ろうか」

 指で示しながら踵を返し、歯科病院のところで十字路を直進した。一本先の小道で右に曲がりつつ朋幸は口を開く。

「日本来て長いの?」
「ヤー。もすぐ二年なります。たくさんのこと覚えマシた」
「一人暮らし?」
「毎日ドール作って暮らしてマス」
「どーる?」
「おにんぎょさん」

 言いつつ手で何やら抱えるような動作をする。おにんぎょさん。人形のことか。ぱっと朋幸の表情が好奇心で明るくなった。

「人形職人? へぇ、すげぇな! どんな子作るの」
「いろいろデス。注文を請けて、依頼されたドール作ります。このくらい小さなものや」

 言いつつ水を掬うように手をすぼめ、

「こぉんな大きなのも」

 今度は両手をいっぱいまで左右に広げる。製造の幅がかなり広いらしい。すげぇなぁ、と朋幸の目がきらきら輝いている。

「よろしければ作りまショか。お近づきのしるし」
「え、いいの」
「ヤー。マスコットヒェンでよろしければ」

 このくらいの、と握った拳の人差し指と親指を開けて示す。こくこくと朋幸は何度も頷いた。

「じゅーっぶん! 嬉しいなぁ、すげぇ楽しみ!」
「お友達の分も作りマス。好きな動物教えてクダさい」
「二個もいいの? ええっとねーじゃあ俺が猫で、マリアはウサギだな! あ、マリアって俺の友達ね。ウサギ好きなんだアイツ。ピーターラビットとか、本全部持ってんの。ぬいぐるみとかクッションとかも集めてんだぜ」
「ワタシも好きです、ラビット」
「可愛いよなぁ」

 などと会話しながら工事現場の前を通り過ぎ、信号を渡って、まっすぐいけばもう青色を主調とした看板が見えてきた。肉まんあるかなぁなどと思いを馳せる朋幸に、ところで、とエドガーが話しかける。視線は前方へ投げたまま。

「先程から、跡をつけられているようなのですが」

 ぴたり、と朋幸の表情が強張った。
 止まりかけた歩を進め、浅く深呼吸を。

「……いつから?」
「最初からデス。偶然かとも思ったのデスガ」
「そか」

 唇を舐める。

「たぶん俺の知り合いだわ。エドガー、悪いけどコンビニ入って。話つけるから」
「お手伝いしますカ?」

 申し出は、予想外だったらしい。大きな目をぱちくり瞬いて、しかし朋幸はへにゃりと笑った。

「ありがと。でも大丈夫だ」
「……そですか」

 うん、と頷く表情に怯えは無い。むしろお菓子でも貰いに行くような喜色を浮かべている。コンビニの前へさしかかり、それじゃあ、と手を振って別れ――
 小道へ入った。
 どんどん奥へと進み、ついに壁が立ちはだかる。
 背後で靴音。
 ……いる。

「朝っぱらからなんの用だよストーカー野郎」

 嗜虐の笑みが風に乗る。背後でひゅっと、息を呑むような音。

「まぁ、話が早くついて助かるけどな。よくもまぁ白昼堂々と」

 振り返る。体ごと。捕食者の笑みを湛えていた口元が、しかし追跡者を認識すると引き攣った。

「……は?」

 ぽかん、と、
 眼も口も呆気に開かれる。
 視線の先では、恐怖に強張った顔を貼り付け、魔王がただただ突っ立っていた。


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Buck / Top / Next